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宮城県登米市迫町佐沼字内町

震災前取材

別名:佐沼要害、鹿ヶ城

佐沼城は平安末期に、藤原秀衡の臣照井高直が館を築いて居住したと言われている。

比高は3mほどだが、本丸を中心に内堀がめぐり、さらに鱒沼・西の堂沼がその周囲を巡り、佐沼川が最外郭に満々たる水をたたえている。さらにその周りは湿地帯となっており、三方を水に囲まれた水城で、守るに易く攻めるには難しい城であった。南は石巻、東は本吉、北は一関にそれぞれ等距離に連絡する交通・軍事上の要所にあった。

南北朝時代には葛西氏に属し、延元3年(1338)頃に北畠顕家が入った。文明年間(1469~86)には佐沼直信が居城としたが、その後一時大崎氏が支配し、大崎氏の家臣石川 氏が直村から4代に渡って拠った。この地は葛西・大崎両氏の接点にあたることから、佐沼城は常に争奪の場となった。

この時期、佐沼城主佐沼直信の妻佐沼御前が迫川に入水自殺したといわれる。御前は大崎政兼の女で夫直信が大崎家に反抗したのを憂い進退きわまって入水したという。

その後、再び葛西氏の支配するところとなったが、豊臣秀吉の奥州仕置により、天正18年(1590)、葛西氏は領地を没収され、その後、葛西氏の旧領は豊臣家臣の木村吉清に属した。しかし大崎葛西一揆が起こり、木村父子はこの佐沼城に立て籠もった。木村父子は伊達政宗により救出されたが、佐沼城は一揆勢により占領された。

この一揆は、蒲生氏郷が、伊達政宗が陰で糸を引いたものとして秀吉に訴え出て、政宗は豊臣秀吉に呼び出され詰問され窮地に陥るが、かろうじてこの危機を脱する。

翌天正19年に、伊達政宗が佐沼城を猛攻して落とし、城中の2000人を撫で斬りにして一揆を鎮圧した。その後、大崎葛西領は伊達領となり、佐沼城 には、津田(湯目)景康が入り、以後津田氏が宝暦6年(1756)まで居した。その後は亘理倫篤が高清水から移って入り、以後亘理氏の居館として明治維新に至る。

佐沼城の別名、「鹿ヶ城」は、藤原の時代に、城の鎮めに生きた鹿を埋めたためと伝えられている。江戸時代には一国一城令により、佐沼城は伊達藩の「要害」のひとつとなった。