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宮城県石巻市湊字牧山

震災前取材

牧山は、日和山に向かい合い、旧北上川の東岸にある海抜250mの山塊。現在は市民の森として整備され、近隣市民の散策の場になっている。牧山は古くから様々な伝説が残され、 山頂には応神天皇2年(271)、神功皇后の勅願により建立されたという零羊崎神社がある。

この牧山の山麓には、平安のころ馬の牧場が置かれていた。そのため「尾ぶちの牧」「をぶちの駒」がいつしか歌枕として用いられるようになった。

陸奥の をぶちの駒も 野飼ふには 荒れこそまされ 懐くものかは  「後撰和歌集」 読み人しらず

綱たえて 離れ果てにし 陸奥の をぶちの駒を 昨日みしかな    「後拾遺和歌集」 相模

またこの地には、魔鬼山寺跡と栄存神社があり、それぞれ次のような伝説が伝えられている。

 

・魔鬼山寺

坂上田村麻呂は東征の折に、抵抗する蝦夷の一族を討伐し、この地で大岳丸を討った。その死体を首、胴、手足に分け、牧山、富山、箆岳の三ヶ所に 分けて埋葬し、それぞれに観音堂を建立した。松島には富山観音、涌谷には箆岳観音、牧山には魔鬼山寺を建立した。また別な説では、田村麻呂が退治したのは、石巻地方にいた魔鬼一族の族長の妻の魔鬼女(まきめ)であるとも伝えられる。

 

・栄存神社

石巻長禅寺の栄存法印は、この地を治めていた笹町某に無実の罪をきせられ江島に流された。栄存法印は恨みを呑んで江島で没した。その後石巻ではたびたび火事が起こり、人々は栄存法印の恨みによるものと噂した。栄存を無実の罪に陥れた笹町某は発狂し、息子や奥方を切り殺し自らもついにそのまま狂死し、笹町氏は断絶した。その後許された栄存法印は、牧山に分骨改葬され、栄存神社が建立された。