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宮城県石巻市門脇二丁目…西光寺

震災前取材

石巻の西光寺には、真田喜平太幸歓の墓がある。喜平太は、その祖を真田幸村の次男の真田守信とする。大坂夏の陣において、大阪方の敗北をさとった幸村は、戦場で合間見えた伊達勢の先鋒の片倉重長に、娘の阿梅や守信を託したという。

以後片倉重長は、白石城二の丸にて真田の遺児を密かに養育し、後に阿梅が重長の後室となったため、真田氏は片倉家の親戚衆となった。当初は徳川家を慮り片倉姓を名乗り、正徳2年(1712)より真田姓に復した。

喜平太幸歓は、幸村から数えて十代目にあたり、幕末期に養賢堂学頭の大槻磐渓等から砲術、兵制を学んだ。嘉永2年(1849)25歳のとき、藩主伊達慶邦の参府に随従し、江戸滞在中に密かに洋学を修めた。

嘉永7年(1854)30歳で、改めて砲術兵法蘭学の研究を命ぜられ、安政3年(1856)に仙台藩の西洋砲術兵法指南役となった。直情型の性格だったようで敵も多く、幾度も職を追われたり辞したりしているが、反面愛されてもいたようでその都度復帰している。

当時仙台藩は、公武協調による近代化を考えており、慶応2年(1866)には近習目付、軍制改革侍読長を拝命し、公武の間を内密に周旋することを命じられ、京坂間を奔走した。

慶応3年(1867)、大政奉還にあたっては、諸藩に先んじて版籍奉還を行い、進歩的な政体が実現するまでの間は京都警備を行い、新時代には仙台藩の主導権を確保しようとする建言を行ったが容れられることはなかった。

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いの後、参政となり軍事の総務を司った。仙台藩は会津に速やかに出兵し会津征討を実行し、新時代を主導しようと考えていたようだが、仙台藩は会津藩の擁護にまわり、西軍の参謀の世良修蔵が暗殺され、奥羽越列藩同盟が、東征総督府に対するものに変化したことに激怒し職を辞した。しかし、有能であることには変わりなく、種々説得され現職に復帰し、その後の東北戦争を戦った。

戦後、喜平太は石巻に移住、明治10年(1877)、西南の役が起こると、宮城県旧士族として700名の召募巡査の総長を命じられたが、思うところがあったのだろう、これを辞して奉ずることはなかった。明治20年(1887)10月、62歳で病没した。