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宮城県登米市東和町錦織字内の目

震災前取材

別名:沼城

湖水城は、葛西氏家臣の西郡新左衛門信明の居城である。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥州仕置に際して、湖水城主西郡新左衛門は葛西氏の命をうけ、現在の石巻市河南に出陣し、深谷庄和淵村で木村吉清軍と闘ったが衆寡敵せず敗れた。葛西晴信も佐沼城に (寺池城の説もあり)篭城したが敗れ、葛西氏は滅亡した。

翌天正19年(1591)、木村吉清の暴政に対して、葛西、大崎の旧臣たちが中心になり一揆を起こした。伊達政宗がこの一揆の鎮圧を豊臣秀吉から命ぜられ、一揆勢の立てこもる諸城を次々と落とし、ついに一揆勢の本拠の佐沼城も攻め落とされた。

伊達政宗は、一揆を鎮めるため謀略を用い、旧領安堵の約束を匂わせて旧臣らを桃生郡小野城に集めた。湖水城の城主だった西郡信明もこれに参加し、その帰路、須恵山山麓にさしかかった所で、伊達氏家臣屋代勘解由、山岸修理らに囲まれ、他の参加者およそ100人とともに殺害された。これが須江山の惨劇である。

西郡信明の妻のもとにこの悲報が届いたその日の夜、この妻は城の東側の機織沼に身を投じて夫の後を追った。今も月夜の晩にはこの沼から機織りの音が聞こえるという。