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宮城県登米市東和町米川字東綱木

震災前取材

当時この地は狼河原村といい、千葉土佐が備中から、千松大八郎、小八郎兄弟を招き、千松沢で西洋式の製鉄を始めた。大八郎兄弟の教えた製鉄法は「たたら式」といい、この南蛮流製鉄法は従来の方法の数倍の生産力があったという。この兄弟は熱心な切支丹で、製鉄の技術とともに、切支丹の教えも広めたという。この製鉄技術の普及とともに、切支丹の教えも広がり、また、その後の切支丹禁令による弾圧で、この地に逃げてくる切支丹も多かった。

慶長17年(1612)、幕府は切支丹の禁教令を出したが、伊達藩は,製鉄の保護という意味から,切支丹に対して寛容な政策を採っていた。しかし、幕府の圧力は強まり、寛永元年(1624)の正月には仙台の広瀬川の水牢で、カルバリヨ神父ほか8名が殉教した。

これでひとまず切支丹の取り締まりは納まったが、寛永13年(1636)、伊達政宗が没すると、この年から翌年にかけて、幕府の強い要請で、徹底した切支丹の取締りが行われ、狼河原村や隣の大篭村で300人以上の殉教者が出た。

それでも伊達藩は、製鉄を保護する目的で、製鉄の中心的な存在の「どう屋八人衆」を保護し、その後も製鉄を続けさせた。一旦は四散した切支丹たちは再びこの地に集まり始め、バラヤス神父を匿い、苦行仏に似せてキリスト像を作り、慈母観音像に似せてマリア像を刻み、洞窟に礼拝所を作って密かに信仰を続けた。

しかしこれらの切支丹にもついに弾圧の手が伸び、享保年間(1716~36)、切支丹は捕らえられ、最後まで転宗しなかったものは磔刑にされた。処刑された凡そ120名は、40人ずつ、老の沢、海無沢(かいなしざわ)、朴の沢の3ヶ所に経文と共に葬られ塚が作られた。現在は、この海無沢(かいなしざわ)の塚のみが原型を保っている。

 

・切捨て場
 この場所は、多くの切支丹が処刑され、大量の血を吸った場所と伝えらている。この場所は桐木場屋敷の人達が代々申し伝えにより密かに供養していたが、同家が昭和57年(1982)に北海道に移住する際、隣家の近親者に以降のことを頼み、そのことにより初めて世に知られるようになった。三段の石段を形造る川石の並べ方は往時のままである。

 

・ロザリオ坂
昭和になりこの殉教の地を訪れた司教が、帰り道にこの坂に差し掛かり、塚にかけたロザリオをそのまま忘れたことに気づき戻ったがロザリオは見つからなかった。殉教者の霊がロザリオをかの地に持ち去ったと、当時の人々は噂したという。