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宮城県栗原市若柳武鎗字町館

文治3年(1187)頃築かれたとされる武鑓城は、東館と西館に分かれ、東館は旧有賀小学校の東北端に位置し、高さ50m、東西400m、南北150mもあった。山頂部に東西100m、南北80ほどの本郭があった。東側僅かの場所にもう一つのピークがあり、頂部には祠があり、数段の壇が見られ、郭の一つと考えられる。南側に有賀小学校跡地とゲートボール場などがあるが、かつては根小屋や藩政期時代の居館が置かれていたものと思われる。丘陵北側には東西に空堀が走り水堀が巡っていたと云う。

西館は東館の西側約100mに位置し、高さ約30mの丘陵上に東西約50m、南北約30mの平場とそれを取り巻く土壇が確認出来ると云う。

戦国期には、葛西氏家臣の武鎗典厩重信の居城であった。天正7年(1579)、鶴丸城主富沢直綱が葛西氏にそむき磐井郡流庄へと侵攻した富沢兵乱の際に、重信は奮戦し功を挙げている。しかし、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず、奥州仕置により主家葛西氏は改易となり、その所領は秀吉の家臣の木村吉清が領することとなった。これに対し、葛西、大崎氏の旧臣らが反発、大規模な一揆が勃発した。重信は一族と共にこれに加わり、翌年伊達政宗の謀略により桃生郡深谷で殺害された。

その後、仙台藩領となった武鎗は、城、要害に準ずる所拝領となり、一時宮内氏らが居住した。しかし宮内氏が所替えとなった後は廃城となったようだ。