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宮城県栗原市栗駒岩ヶ崎字桐木沢

震災前取材

 

 

石母田氏は、甲斐武田氏の流れをくむと伝えられる。伊達氏初代の朝宗が平泉征討の武功により、伊達郡に領地を得て移ったとき以来の伊達氏普代の家臣である。伊達郡石母田城に居住し石母田を称し、代々伊達氏に仕え、石母田光頼のとき、奥州探題となった晴宗に仕え、守護代となり安房守に叙任された。

光頼の子景頼も伊達氏に仕え軍功をあげ、天正18年(1590)の奥州仕置の結果、伊達政宗が岩出山に移ると、景頼も伊具郡高倉村に移った。その後、文禄年間(1592~96)に加美郡谷地森村に、慶長元年(1596)には登米郡米谷村に所替となり2千5百石を領した。

景頼には男子がなかったため、娘に越前出身の浦山清三郎景綱を迎えて家督を譲り、景綱は宗頼を名乗った。宗頼はまれに見る美貌の持ち主だったといい、小早川秀秋に仕えていた宗頼を、政宗が見初め家臣にしたとも云われている。しかしその美貌だけではなく、性は温厚、誠実で、しかしながら知勇の将として、大坂夏の陣には道明寺口の戦いに軍功をあげた。その後、5千4百石の禄を給され、栗原郡三迫に移り、岩ヶ崎城(鶴丸城)に居した。

伊達忠宗の代には仙台藩の重役として藩政を切り盛りしたが、伊達政宗の死後、仙台藩に対しては幕府から切支丹禁制の強い圧力がかけられ、切支丹弾圧の指揮をとり、数百人の殉教者を出した。

その後も石母田氏は、仙台藩の中で重きをなし、加美郡宮崎を経て、栗原郡高清水に移り明治維新を迎えた。