震災前取材

岩手県住田町世田米字小股

 

別名:荷沢峠
現在は、住田町と遠野市の境にあり、現在の国道107号線にあり、住田町と遠野市の境界になっている。江戸時代はこの峠が、仙台伊達藩と盛岡南部藩の藩境となっており、現在は住田町と遠野市の境界になっている。
かつては盛街道と呼ばれ、水沢から大船渡に抜ける脇街道の往還路だった。水沢から北上川を渡り、岩谷堂、人首の宿場を経由し、種山の物見山を越えて箕輪山を経て気仙郡に入り、世田米宿から白石峠を越えて盛宿へと通じる。

千数百年前に胆沢城が築かれ、陸奥国が朝廷により征討された頃に切り開かれ、塩や海産物を運んで政府軍の兵士を養った道でもある。

この峠で戦国期後期、南部氏を後ろ盾にした平清水氏ら遠野勢と、伊達氏を後ろ盾にした阿曽沼氏ら気仙勢が戦った。
阿曽沼氏は戦国期には遠野十二郷の領主だったが、奥州仕置の結果領地は没収され、南部氏の被官とされた。しかし、遠野は伊達の勢力圏と接していたため、それまでの行きがかりから伊達氏勢力とも比較的近かった。
このため、南部氏は謀略を用い、関ヶ原の戦いの折に、南部勢として山形に出陣していた留守に、居城の横田城を奪い、阿曽沼広長は伊達領の世田米に逃げた。
広長は、伊達氏の援助を受けて、遠野奪還を試み二度遠野に侵攻したが敗れた。後がない広長は、伊達領内から浪人をかき集め、慶長6年(1601)11月、三度目の遠野奪還部隊を興した。
樺坂峠を越えて阿曽沼氏に比較的近いと思われた平清水氏の領する小友に入り、先の戦いで鱒沢を領する鱒沢左馬之助を失った鱒沢に出て、遠野へ攻め入る作戦だっと云う。

阿曽沼広長率いる気仙勢は、予定通り世田米を出陣、樺坂峠にさしかかると、小友の平清水駿河は、自慢の三尺余りの大太刀を振りかざして真っ向から討って出、気仙勢の中に割って入いり奮戦した。気仙勢は恐れおののき平清水駿河の周囲から皆逃げ散ったと云う。
そのうち、天候が崩れ、寒気が強まり吹雪模様となり、気仙勢の正面に吹き付けるようになり、気仙勢の士気は衰えた。遠野勢はこれを見逃さず、焚火等をしながら暖をとっていた気仙勢に、焚火の炎を目印に矢を散々射かけ討って出ると、気仙勢は総崩れとなった。
この敗北により、伊達政宗の再三にわたる援助にもかかわらず遂に遠野奪還は失敗に終わり、阿曽沼広長は面目を失い、名実共に遠野領主の地位を失った。