岩手県宮古市沢田

震災前取材

 

この地には、平泉を脱出した源義経主従が来たり、この地に仮の館を築きしばらく滞在したという伝説を伝えている。
源義経は、平泉の衣川の館を藤原泰衡に攻められたが、恩人である秀衡の子である泰衡と戦うことは不義にあたるとし、平泉を去ることにした。そのとき、このような時に封を開くべく義経にあてた秀衡の遺書を読むと、このようなことも予測していた秀衡は、義経が落ちるべく蝦夷の道を記していた。

主従は意を決し、中夜、衣川の館を抜け出し逃れた。義経主従は、この宮古の地に来たり、この地に仮の館を構え、三年三月この地に住まい黒森山で行を修めた。

その後、義経主従はこの地を去り、里人らは義経の徳をしたい、義経の甲冑を埋め、祠を建てて祀ったという。また、義経が着用した緋縅の鎧が、宝物として伝えられていたとも云う。
この地は黒舘と呼ばれ、また九郎舘、宮古舘とも称され、鎌倉時代には、閉伊頼基の一族の居館となっていた。天正19年(1590)には、浅野長政が、九戸政実の乱を制圧した帰り、この地に寄ったと云う。

その後、この稲荷社は、「はんがんさま」と呼ばれ、海上安全、大漁満足、家内安全などを願う人々の信仰を集めた。境内には、「お堂」と称する、白狐が住むという穴があり、この穴の前には、鶏卵や油揚げ、魚などが供えられた。慶長19年(1614)の大津波で、宮古全体が流された時には、当時の代官がこの稲荷社に祈願し、この地を皮切りに、町割りを決め、宮古の復興を行った。