岩手県釜石市橋野町第三十四地割

震災前取材

 

牧庵鞭牛は、宝永7年 (1710)、宮古の和井内の農家に生まれた。鉱夫などに従事していたが、22歳の時、母が死亡したことを契機に仏門に入った。32歳の時に、釜石の栗林村常楽寺住職、38歳で林宗寺の住職となった。

46歳の時の宝暦5年(1755)、住職を弟子に譲り、橋野村大田林の與三郎から寄進されたこの地に、ささやかな隠居所を建てこの地に住まいした。以後、牧庵と号し、この隠居屋敷を「鶏頭山」と名付けた。

宝暦年代は、江戸時代の四大飢饉の一つとして大凶作の続いた時期で、この閉伊地方も大きな被害を受けた。特にこの地方は、古来より陸の孤島であり、救民のための食料物資の輸送もままならず、多くの者が餓死した。この惨状を憂いた鞭牛は、仏に祈り、隠居屋敷に供養碑を建立し、物資の輸送のための道作りの悲願をたて、この屋敷をあとにして、剣の嶮道や閉伊川筋の開削をはじめ、各地の道路開発に心血をそそいだ。

当時はツルハシやノミ、玄翁と言った基本的な道具しかなかったが、道をふさぐ巨岩に対しては薪で熱し冷水をかけ、脆くしてから破壊するという当時としては画期的な方法を用い、様々な難所を切り開くことに成功した。 始めは不信に思っていた村民らも、朝晩雨天構わず、己が体を省みない和尚の献身さに打たれ次第に協力するようになっていった。

明和4年(1765)、長年の開削の功績を称え、盛岡藩より終身扶持を賜った。道作りの旅に明け暮れた鞭牛も老齢となり、吉里吉里坂の改修を最後にこの屋敷に戻り、天明2年(1782)9月、この地で座禅往生を遂げた。享年73歳だった。この時まで、鞭牛が携わった道路の総延長は、およそ400kmという驚異的な距離であった。