岩手県平泉町平泉大沢

2012/09/07取材

 

毛越寺は、嘉祥3年(850)、中尊寺と同年に慈覚大師円仁により創建されたと伝えられる。大師が東北巡遊のおり、この地にさしかかると、一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなった。ふと足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちていた。大師は不思議に思いその毛をたどると、前方に白鹿がうずくまっていた。

大師が近づくと、白鹿はフッと姿が消え、一人の白髪の老人が現われ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げた。大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し、嘉祥寺と号した。これが毛越寺の起こりとされる。

その後、嘉祥寺は大火により焼失し荒廃したが、後三年の役後にこの地を支配した奥州藤原氏第二代基衡夫妻、および、その子の第三代秀衡が、壮大な伽藍を再興した。

中世の歴史書『吾妻鏡』によれば、「堂塔40余、禅房500余」があり、円隆寺と号した金堂、講堂、常行堂、二階惣門、鐘楼、経蔵があり、嘉祥寺その他の堂宇もあり、当時は中尊寺をしのぐ規模だったという。金堂の円隆寺は、金銀、紫檀をちりばめ、その荘厳は『吾妻鏡』に「吾朝無双」と評されている。

奥州藤原氏が滅亡後も、鎌倉幕府に保護されたが、嘉禄2年(1226)に火災に遭い、戦国時代の天正元年(1573)には兵火に遭い、土壇と礎石を残すだけとなった。

江戸時代は仙台藩領となり、寛永13年(1636)の伊達政宗の死去に際して、本尊の釈迦三尊像は、政宗の菩提寺として創建された仙台市の瑞鳳寺に遷された。寺は伊達藩の庇護を受けていたが、寛文年間(1661〜1672) には、寺とその周辺は水田化された。

明治後期には、南大門の外側に本堂や庫裏が建てられ、大正10年(1921)には、一関城の大手門を移築し山門とした。大正11年(1922)に、庭園跡などが「毛越寺境内 附 鎮守社跡」として史跡に指定された。この遺跡は、昭和29年(1954)より発掘調査がなされ、その規模や構造などの全容がほぼ解明された。

それによれば、遺跡は、現在の毛越寺の境内にあり、旧来の姿をとどめており、土塁、南大門跡苑池、金堂跡その他の堂跡の保存状態はきわめて良好である。金堂跡は桁行7間、梁間6間に復原される礎石がほぼ完全に残っており、土壇の四周には基壇地覆石がめぐらされ、雨落溝の構造ものこっていた。左右には翼廊跡があり、前方に折れてその両端にそれぞれ楼の跡も残っていた。その他の堂宇の礎石もよく残り、その浄土庭園は、平安時代末期の遺構として、毛越寺のシンボルとなっており、苑池も橋脚をのこし、中島や庭石についても旧態をよく示している。

平成元年(1989)、平安様式で本堂が再建され、平成13年(2001)、世界遺産登録の暫定リストに「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として記載され、平成23年(2011)、世界遺産に登録された。

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