岩手県一関市大東町渋民伊勢堂

2011/12/07取材

 

仙台藩藩儒の芦東山(あしとうざん)は、元禄9年(1696)、この地一関市大東町に農民の子として生まれた 。本姓は岩淵氏で、祖は帰農した葛西氏の家臣の流れと考えられる。

幼い時から学問を好み、7歳に僧に句読を授けられ、9歳には医術、兵法を学んだという。その才能を見出され、15歳で仙台藩の儒者の田辺希賢(たなべまれかた)の門弟になり、19歳で仙台藩主伊達吉村に御前講義を行った。京都、江戸に遊学し、その後藩儒としてよく勤めた。

藩主伊達吉村に、農村の生活改善などについて何度も上書し大いに藩主を諫めた。吉村からは奥州伊達氏の遠祖と考えられる、伊達念西の前後についての調査を命じられている。

享保20年(1735)に、藩学建設を献策し、藩は学問所を建てたが、東山が考えていたよりも規模は小さく、また東山の、学問には身分の隔てはないとする考えは、当時では早すぎる内容で、危険思想とみなされ、元文3年(1738)、43歳の折に、現在の宮城県加美町に蟄居を命じられた。

博学達識の士であり、当時の仙台藩儒では遊佐木斎に次ぐものだったが、性格に柔軟さや妥協がなく、同僚とも争うことがあり、そのような性格が、結果として不幸を自ら招き、学問を社会に活かすことができなかった。

東山は、20年間の幽閉生活を送ったが、その間に、「目には目を、歯には歯を」といった応報刑が当たり前であった時代に、教育刑を盛り込んだ日本最初の刑法の「無刑録」をあらわした。

完成後も、時代に先んじ過ぎ、危険思想と受け止められ出版は許されなかったが、百年余を経た明治10年(1877年)、元老院幹事陸奥宗光、水本成美らの尽力により、元老院から公刊され、ようやく日の目を見るに至った。明治政府は近代刑法制定にあたり、ヨーロッパ諸国のものより、これを参考にしたことが多かったと言われている。

東山は、67歳で許され幽閉を解かれ、その後表に出ることはなかったが、この地に戻り子供達の教育に尽力し、安政5年(1776)、81歳で没した。