岩手県一関市東山町田河津字竹沢

2011/12/07取材

 

この地の古碑は、昔から「菅公夫人の墓」と伝えられている。

菅原道真は、宇多天皇の信任を受け重用され、醍醐朝では右大臣にまで昇った。当時は、皇室の外戚として藤原氏が権勢を振るっていたが、関白藤原基経亡き後の藤原氏にはまだ有力者がいなかったこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。道真が右大臣となった時期、左大臣は藤原時平で、道真はこの時平に讒訴され、延喜元年(901)の正月、筑紫の大宰府に左遷された。

道真の一族もまた諸所に配流され、夫人の吉祥女(きっしょうめ、紀長谷雄卿の娘)は、3人の子どもと従臣の菅原山城を伴い、胆沢の地へ落ちてきた。この地の長者の軍治兵衛尚利は、4ヶ所に配所を設けてそれぞれ住まわせることにした。母君の住んだところを母体、第一姉のところを上姉帯、第二姉のところを下姉帯、弟の菅秀才敦茂の配所の地を中野と名付けたという。

延喜3年(903)2月、道真が筑紫で亡くなったという知らせが、家臣の大江麻呂によってもたらされると、吉祥女は悲しみのあまりに病を発し、同6年(906)9月、母体で亡くなった。菅原山城はこの地にその霊を祀り、篤く弔ったという。現在この地には、石碑一基と五輪の塔2基が残っているが、文字はほとんど判読できないほどになっている。

この碑の近くには、山城の屋敷跡及び山城が使用したと伝えられる井戸がある。その子孫と伝えられる、菅原の姓を名乗る家は10数件有り、この一族は古来梅を食べない風習がある。

平成6年(1994)、この墓の存在を知った太宰府の宮司が、道真ゆかりの梅の木をこの地に植樹し、続いて日本三大天満宮の鎌倉の荏柄天神社、京都の北野天満宮からも梅の木が贈呈され植樹されている。現在、この一帯は公園として整備されている。