岩手県盛岡市仙北一丁目

震災前取材

「徳清」は、寛文年間(1661~73)に、紫波郡徳田村から盛岡に出て畳屋に奉公し、畳業などを営み、困った人に金も貸していたという。徳田屋と名乗り、初代が徳田屋清右衛門だったことから徳清と称すようになった。

その後、醸造業に手を広げ、のちに米屋も営んだ。やがて盛岡藩の御立入商人となり、天保5年(1834)の凶作時には、藩の米穀世話方に任命され、徳清の蔵は一時は藩の米蔵にも使われた。藩の勘定方にも出仕し、南部家とはかかわりが深かった。

明治維新後、廃城となった盛岡城の勘定奉行の建物の払い下げを受けた。広大な敷地には主屋の他に4つの蔵を持ち、その内の米蔵は盛岡城の一部を用いて造られたと伝えられる。味噌蔵は事務所に改築され保存にも積極的で、昭和52年()、盛岡市の保存建造物に指定されている。道路と屋敷の境界に高い土蔵造りの建物を巡らせたしっくい壁、瓦ぶき屋根は歴史を重ねた豪商の風情を今日に伝えている。