岩手県北上市立花

2014/05/10取材

 

黒沢尻河港は、江戸時代の初めの正保年間(1644~48)に設置された。北上川は古来、南部藩と伊達藩の領域を南北に通ずる交通の大動脈として利用されてきた。河口の石巻から盛岡までわずか100mという高低差で、船の航行が容易であったからである。特に石巻から黒沢尻の間は、概して水深もあり比較的大きな船も航行できた。

南部領では米を安い費用で一度に大量輸送できる北上川舟運を開発した。領内一の穀倉地帯を控えているこの黒沢尻には、盛岡~石巻間最大の河港を設け、年貢米を納める御蔵、造船所、御蔵奉行、御ひらた奉行、御番所などの施設、機関を置いた。

黒沢尻から上流は、川が浅いため百俵積みの小繰船、下流は三百五十俵積みのひらた舟が就航し、上流からの米はすべて、いったん黒沢尻河港の御蔵に集められ、ひらた舟に積み替えて石巻へ下した。そこから江戸へは千石船で運ばれた。それは多い時には年間十万俵にも達した。

ひらた舟は、普通4艘一組で船団を組んで出港した。水位が高い時は、三百五十俵をそのまま積めるが、水位が低い時は、一部の俵をはしけに積み分けて途中まで随伴した。

黒沢尻から石巻までは、順調にいけば下り3日、上り10日位とされていた。しかし水位の状態や風雨、川の凍結など、気候の変化によって、しばしば難儀を強いられた。特に黒沢尻から一関の間には、浅瀬や暗礁が多く、また狐禅寺峡谷部は川幅が狭く、流量が豊富なので渦巻きが多く、暗礁も多い。その下流から石巻までは、上流から流された土砂の堆積で、河道の変化が著しく、冬の西風が船頭たちを悩ませるところであった。

一方、ひらた舟が川をさかのぼる時は、風があれば帆を用いるが、風がない時は棹で漕いで上った。流れが急で棹が使えなくなると、水夫が岸に上がって岸から綱で引いた。川岸には細い船引道がつくられていた。

引き綱を帆柱に結び付け、この綱にひこ綱をつなぎ肩にかけて引くのである。船には船頭一人だけ残り、棹で船が岸に寄りすぎないようにした。水夫だけでは船が動かない時は、付近の野良で働いている百姓たちを雇って船を引いたという。

藩の回米輸送のほか、商人たちによる交易が盛んに行われ、大豆、木材、銅、紅花、紫根、薬草などの地元産物が移出され、塩、砂糖、衣類、日用雑貨などが移入された。

河港は、帆をかけたひらた舟や小繰舟がひしめきあい、舟運に携わるたくさんの船頭、人夫、商人、役人たちで賑わう港町ととして発展した。明治23年(1890)、東北本線の開通によって、舟運は鉄道輸送に座を譲った。