岩手県盛岡市南大通三丁目

震災前取材

御蔵は、 江戸時代の後期に建造された米蔵で、土蔵造り平屋建、屋根は煉瓦葺切妻となっている。外壁は土蔵の大壁式で白漆喰塗り、窓は外開きの土壁式防火戸、鉄格子金網付の開口部、腰は花崗岩積みでかなり堅固な基礎に造られている。

米蔵なので、屋根に空気断熱層を設けて床を高くし、防湿換気が配慮されている。御蔵自体が重要な資料で、盛岡市指定文化財に指定され、現在は「盛岡市下町資料館」として、庶民の生活用具や新山舟橋ゆかりの資料を展示公開している。

この地には、新山河岸がおかれ、北上川水運の起点でもあった。新山河岸は御蔵の他、番所や舟宿が軒を連ね、奥州道中盛岡城下の入り口にも当たることから、物資の運搬が頻繁に行われていた。

たびたび大飢饉にみまわれた盛岡藩は、嘉永3年(1850)飢饉に備え備穀を奨励する布令を出した。この制度は半官半民の体制で行われ、米は当初何ヶ所かに分散して保管していたが、安政3年(1856)になると、一括してこの御蔵に備蓄されたといわれている。