岩手県遠野市小友町字22地割

2014/05/09取材

 

 

 

 

平清水館は、この地を領した平清水氏の居館である。

平清水氏は南北朝期に奥州の南朝方勢力の拡大のため九州から来た菊池氏の流れで、南朝方の衰退により奥州の地に土着した。平清水氏は、葛西氏の家臣である江刺氏の重臣だった菊池右近恒邦に始まる。しかし天正年間(1573~1592)、菊池右近は、豊臣秀吉の奥州仕置きで葛西氏が没落し、南部氏との同盟を画策したが主家の江刺氏から追討され遠野へ亡命、阿曽沼氏より小友の一部を預かることになった。遠野で菊池一族は板沢氏、平清水氏、新谷氏などを名乗り、それぞれに館を構え、その内の平清水氏の館がこの平清水館である。

平清水氏が支配した小友は、気仙郡から続く金鉱脈地帯で産金で栄え、平清水氏は知行高以上に遥かな潤いがあったものと考えられ、産金関連に精通した一族であったと思われる。

奥州仕置きでは、遠野の古くからの勢力の阿曽沼氏は、奥州仕置きにより大名としては没落したが、南部氏の扶養として家名を存続させていた。しかし南部氏は、それまで対立していた阿曽沼氏に対しては警戒感を持っており、一族にもそれを不安に思っている者も少なくなく、一族の鱒沢氏は阿曽沼宗家となにかと対立していた。

関ヶ原の戦いの際に、南部利直は阿曽沼氏とともに最上の陣に出陣した。鱒沢左馬之助はこれを好機として、南部氏を背後にして阿曽沼氏の本拠城の横田城を奪う計画を立て、平清水駿河もこの計画に加わり横田城を奪取した。最上の陣から帰る途中の阿曽沼氏をこれを知り、伊達氏の傘下の気仙郡世田米に逃れ再起を期した。

阿曽沼氏はその後、伊達政宗の加勢を得て、度々遠野へ攻め込んだが、鱒沢氏・上野氏・平清水氏はその都度これを撃退した。平清水駿河は、南部氏より加増を合わせて千石を安堵され、南部氏の重臣の北信愛の嫡男の北十左衛門を娘婿とし、南部氏の下での地歩を固めた。その後、鱒沢氏は専横の振る舞いがあったとされ切腹させられ断絶した。

平清水駿河は横田の城代となったが、北十左衛門が南部藩を出奔し大阪城に入る事件が勃発し、大阪の陣が終わった後に捕えられ処刑された。平清水駿河もそれに連座したとされ、切腹を命じられ家も断絶した。