岩手県盛岡市天昌寺町

震災前取材

厨川(くりやがわ)柵は、現在の盛岡市の西がわの、この天昌寺台地が中核部として有力と考えられている。

厨川柵は、かつて厨川と呼ばれた雫石川と北上川の合流点の要害の地に、安倍頼時により築かれたと考えられる。その後次男安倍貞任が拠点とし、貞任は「厨川次郎」と呼ばれた。

安倍氏は、陸奥の奥六郡を支配していたが、次第に勢力を拡大し、現在の青森県東部の糠部から、現在の宮城県南部の亘理、伊具にいたる広大な地域に影響力を及ぼし始めた。このため、次第に朝廷と対立するようになり、朝廷は源頼義、義家を陸奥国府に送り、 永承6年(1051)、前九年の役が勃発する。

安倍氏は、頼義、義家の官軍に対して優勢に戦いを進めたが、頼義は出羽の清原氏の助力を得て、その後は官軍が優勢に戦いを進めた。この地は源義家らとの最終決戦場となり、安倍一族は源頼義らの軍勢と戦ったが、康平5年(1062)、安倍氏は敗れ、その後、宗任、家任、則任は降伏して九州へ流刑に処され、重任は殺された。

安倍氏滅亡後は清原氏が支配するところとなり、後三年の役の後には、安倍氏の血を引く清原清衡が藤原と姓を戻し奥州藤原氏として支配した。源頼朝の奥州征討では、藤原氏の一族の樋爪氏が立て篭もり抵抗したが敗れた。

この戦いで奥羽の地も手中に納めた頼朝は、伊豆の工藤行光をこの地の地頭とした。工藤氏はこの柵の一画の安倍館跡に厨川城を築き岩手郡を支配、後には厨川氏を名乗り、岩手殿とも呼ばれた。工藤氏は、頼朝の命に拠り、岩手山を信仰の対象とした岩鷲山大権現の大宮司となり、安倍氏の祈願所を継承した。