岩手県花巻市中根子

2017/05/14取材

 

この地近辺にはかつて「河原小屋淵」と「馬越渕」があったが、堤防が築かれて今はなくなった。いずれの淵も農耕馬の「冷し場」であり、宮沢賢治の子供の頃からの遊び場だった。この辺りには大きなサイカチの木があったようで、さいかち淵は、この両淵の総称と考えられている。

「さいかち淵」は、宮沢賢治の生前未発表の村童スケッチといわれるもの。8月13日と14日の二日間、「しゅっこ」や「ぼく」たち仲間が、さいかち淵で遊んだ話。「さいかち淵」は「風の又三郎」のクライマックスの場面でも使われており、魚とり、鬼ごっこを共有する、子供たちにとってのミステリーゾーンといえるものである。

この淵は、豊沢川の流れの中にあったが、豊沢川はしばしば氾濫して川筋が変わり、流域は浸水することが多かった。そのため明治期から徐々に治水が進められていたが、賢治の子供時代にはこの地は子どもたちの川遊びの絶好の地だったようだ。

 

「さいかち淵」より

さいかち淵ぶちなら、ほんたうにおもしろい。
しゅっこだって毎日行く。しゅっこは、舜一しゅんいちなんだけれども、みんなはいつでもしゅっこといふ。さういはれても、しゅっこは少しも怒らない。だからみんなは、いつでもしゅっこしゅっこといふ。ぼくは、しゅっことは、いちばん仲がいい。けふもいっしょに、出かけて行った。

ぼくらが、さいかち淵で泳いでゐると、発破はっぱをかけに、大人も来るからおもしろい。今日のひるまもやって来た。
石神の庄助がさきに立って、そのあとから、煉瓦場の人たちが三人ばかり、肌ぬぎになったり、網を持ったりして、河原のねむの木のとこを、こっちへ来るから、ぼくは、きっと発破だとおもった。しゅっこも、大きな白い石をもって、淵の上のさいかちの木にのぼってゐたが、それを見ると、すぐに、石を淵に落して叫んだ。

「おゝ、発破だぞ。知らないふりしてろ。石とりやめて、早くみんな、下流へさがれ。」
そこでみんなは、なるべくそっちを見ないやうにしながら、いっしょに下流の方へ泳いだ。しゅっこは、木の上で手を額にあてて、もう一度よく見きはめてから、どぶんと逆さまに淵へ飛びこんだ。それから水を潜って、一ぺんにみんなへ追ひついた。

ぼくらは、淵の下流しもの、瀬になったところに立った。
「知らないふりして遊んでろ。みんな。」しゅっこが云った。ぼくらは、砥石といしをひろったり、せきれいを追ったりして、発破のことなぞ、すこしも気がつかないふりをしてゐた。
向ふの淵の岸では、庄助が、しばらくあちこち見まはしてから、いきなりあぐらをかいて、砂利の上へ座ってしまった。それからゆっくり、腰からたばこ入れをとって、きせるをくはへて、ぱくぱく煙をふきだした。奇体だと思ってゐたら、また腹かけから、何か出した。
「発破だぞ、発破だぞ。」とぺ吉やみんな叫んだ。しゅっこは、手をふってそれをとめた。庄助は、きせるの火を、しづかにそれへうつした。うしろに居た一人は、すぐ水に入って、網をかまへた。庄助は、まるで電車を運転するときのやうに落ちついて、立って一あし水にはひると、すぐその持ったものを、さいかちの木の下のところへ投げこんだ。するとまもなく、ぼぉといふやうなひどい音がして、水はむくっと盛りあがり、それからしばらく、そこらあたりがきぃんと鳴った。煉瓦場の人たちは、みんな水へ入った。

「さぁ、流れて来るぞ。みんなとれ。」としゅっこが云った。まもなく、小指ぐらゐの茶いろなかじかが、横向きになって流れて来たので、取らうとしたら、うしろのはうで三郎が、まるで瓜うりをすするときのやうな声を出した。六寸ぐらゐある鮒をとって、顔をまっ赤にしてよろこんでゐたのだった。