岩手県宮古市田老字和野

2016/04/08取材

 

真崎海岸は、三陸海岸のほぼ中央部にあたり、北三陸と南三陸の境に当たる。三陸海岸は全体として隆起地形であるが、隆起の速度の違いにより、この宮古市を境に、南北で異なる様相を呈する。この地より北では、陸地が大きく隆起し、海岸段丘が発達している。そのため、鴻ノ巣断崖のような段丘崖が直接海に接し、港に適した場所が少ない。また、段丘崖が波の侵食によって変化に富んだ海蝕崖となっている場所もあり景勝地が多い。

この地より南では、隆起速度を上回る海面上昇により相対的に沈水し、リアス式海岸となっている。そのため、入り組んだ複雑な海岸線と水深の深い入り江が多数みられ、天然の良港となり漁業が盛んである。人々の生活の場は、海に面した急峻な谷間にできた沖積平野が主で、そのため古くから津波の被害を度々受けている。

真崎海岸は、「小港」「前須賀」「沼の浜」の3地区にまたがる総延長約2kmの海岸である。その内の約1kmが海水浴場となっていたが、東日本大震災の際の津波により、ビーチハウスやロッジなどの設備はすべて流された。各浜には、希少な植物が自生し、中でも「沼の浜」では6月頃には、一面紫色のハマエンドウが咲きほこる。

 

・正清伝説

かつてこの地の高台に、正清という武将が館を構えていたという。正清には「おつる」と「おたま」という二人の娘がおり、この地で穏やかに暮らしていた。

正清は、身の丈六尺余の豪勇の士で、知略にたけ、多くの敵と戦いながらも常に勝ち、この地を支配していた。。正清の居城の入り口は岩窟で、そこには敵が侵入すると鳴り出す鼓岩があり、これにより敵の侵入を事前に知ることができたと云う。

この二人の娘のうちの姉のおつるは、ある頃から敵方の若者と恋に落ちた。若者は夜ごとおつるに会いに来るが、敵の侵入を察知して鳴るという鼓岩に阻まれおつるの元へはたどり着けないでいた。そのためおつるは、愛しい人に会いたさから、父が留守の時に鼓岩を壊してしまった。鼓岩を壊したことを聞いた若者は、なんなくおつるに逢うことができ、二人は燃えるような恋に落ちた。

正清は、そんなこととはつゆ知らず、年頃になる二人の娘のために、今まで貯めた財宝を持ち、翌春には里に居をかまえるつもりでいた。しかし、進入を妨げていた鼓岩が壊れたことをしった敵は、その年の暮れ真崎へ攻め込み、正清もろとも二人の娘も惨殺されてしまった。

正清は娘のために蓄えた財宝の場所を示すものとして『朝日とろとろ、夕日輝く曽根の松、うるしまんぱい、黄金おくおく』と、謎めいた呪文を残し、その後、それを知った里人たちの何人かが財宝を探したが見つけられてはいない。

 

この伝承とほぼ同様の伝承は各地に散在し、その原型は朝日長者伝説と考えられる。この地の伝承の「正清」が、実在の人物なのか、その時代背景なども不明である。しかしこの地は、南北朝期には源為朝を祖とする閉伊氏が支配していたが、その後、南部氏と争い、一族も相争うようになり衰退していった。この伝説は、その当時の閉伊氏一族の「隠れ里」の伝説とも考えられる。