岩手県田野畑村室場

2017/03/12取材

 

この地は、南部藩のタタラ場が置かれた地で、この地域の多くの者が製鉄に関わった。

岩手県での鉄の生産は、平泉藤原氏の時代の平安時代からと古いが、下閉伊、九戸地域でタタラ製鉄が大規模に行われるのは、寛政年間(1789~1801)からである。

この地には、今も「鉄山かせぎ」という言葉が残り、それはいくら働いても賃金を払ってもらえない住民たちの怒りの言葉だ。それがこの地で起きた三閉伊一揆の原因にもなっている。

当時の精錬方法は、高さ2mほどの炉(タタラ)に、吹子2~4個をつけ、木炭を三昼夜燃やして吹き続けるもので、約500貫前後の生産をあげた。岩泉の中村家と大野村の晴山家が大規模な鉄山経営を行っており、この地の経営は中村家が行っており、他の鉄山も合わせ、毎年10万貫前後の鉄を宮古港から仙台、水戸、江戸に移出していた。

この地域一帯は農地が少なく農業生産力は乏しく、鉄産業はこの地の重要な産業だった。20代の若者は鉄山労働者、30代は鉄運搬の牛方や馬飼育に、老人、子どもは鉄山燃料の炭焼き、婦女子は養蚕、織物などと、仕事は分業化し他との交流が開け、米を買い入れるなど、貨幣経済の密度の高い社会構造になっていった。

しかし、南部藩の財政が逼迫するにつれ、鉄産業に重税が課されるようになり、徹底した取り立てが行われるようになった。さらに、南部藩から権限を与えられた鉄山の支配人の佐藤儀助は、使用人を強制的に徴用し、使用人の給料を着服し、耐えかねて逃げ出すものがあれば捕縛した。

このような状況の下で三閉伊一揆がおきた。弘化の一揆では、宮古本町にあった酒屋の若狭屋が襲撃された。群衆は家屋、土蔵までも壊し怒りを爆発させた。若狭屋は鉄山の支配人佐藤儀助の店だった。嘉永の一揆では、群衆は野田村の大披(おおひらき)鉄山も打壊したが、これも儀助の経営で、さらに小川にあった儀助邸も打ち壊しにあった。この地のタタラ場は南部藩直営だったが、やはりそのとき打ちこわしにあった。

現在は畑の中にわずかに炉の跡のようなものが残るだけだが、かつては溶鉱炉のある90坪ほどの建物があり、その傍らに「炉の神」が祀られていたと云う。周辺は灰色の土が一帯に広がり鉄山跡の名残りが見られる。また鋳銭所もあり、900坪ほどの敷地に塀を回し、表門と裏門が設けられており門番が置かれていた。