岩手県岩手町一方井

2017/05/13取材

 

別名:輪台城

一方井(いっかたい)城は、高山から南に延びる丘陵の突端部、比高約40m、標高280mに位置し、南西に一方井川が巡り、北側は山地、東側は急斜面に囲まれた、要害の地にある。城域は東西約150m、南北約200mほどで、大きく3つの郭から形成され、南から一ノ郭・二ノ郭・三ノ郭と南北に連なり、それぞれが深い堀で区画されている。また城の周囲にも、二重、三重の空堀が巡らされている。一ノ郭の北端には、櫓台と思われる高さ4~5mの高台が築かれている。

築城時期は不明だが、前九年合戦で敗れた安倍一族の末裔とする十三安東氏の一族が、この地に入部し築いたとされ、この地で一方井氏を称したと伝えられる。支族には米内氏があり、郡の米内郷を領して氏としている。

戦国期、三戸南部氏が南下政策をとりはじめると、一方井氏はその支配下に組み込まれた。当時の北岩手郡の諸氏の中でも、最有力の豪族であり、南部氏に従った際には7百石を領した。

この城は、南部氏が、岩手、紫波方面へ勢力を伸ばす際の前線の拠点として、重要な役割を果たした。以後、一方井氏は、九戸の乱や大坂夏の陣などにも出陣している。しかし天正20年(1592)、秀吉の命による領内破却36城の1つとされ破却された。

この城は、盛岡藩の礎を築いた南部二十六代南部信直の出生の地として知られ、信直はこの城で、田子高信と一方井安正の娘との間に、天文15年(1546)に生まれ、この地の修験者、自光坊の下で学び、この地で13歳まで過ごしたと伝えられる。