岩手県遠野市遠野町第五地割

 

  • 鍋倉城址

別名:新横田城

鍋倉城は、標高340mの独立丘陵である鍋倉山に築かれた山城。現在残る遺構は、近世に遠野南部氏により修理築城されたものである。

比高は約80m、中央に120m×24mの本郭が位置し、空堀をはさんで南方に88m×45mの二の郭、本丸の北東に135m×29mの三の郭がある。二の郭、三の郭には、重臣の屋敷が構えられていたとされる。本郭の西辺に土塁が残り、また本郭と二の郭の間には礎石も見られる。堀跡も各所に見られ、本郭と二の郭の間のほか、本郭西方や二の郭西方にも認められる。

本郭の建物は、当初は萱葺きで、慶安年間(1648-1651)の火災以後は柾葺きに改められた。本郭は四方には板囲いの堀が巡り、二の郭の外囲は柵であった思われる。現在は鍋倉公園として整備され、三の郭跡には展望台がある。

この地は、鎌倉初期から阿曽沼氏が支配していた。阿曽沼氏は、始め、現在の遠野市松崎の横田城を本拠地としていたが、周辺部がたびたび洪水の被害に遭ったため、阿曽沼広郷(ひろさと)の代の天正年間(1573-1591)、鍋倉城を築き本拠地を移した。

阿曽沼氏は、田瀬、鱒沢、小友、綾織、宮森、大槌、釜石の遠野十二郷を支配した陸中最大の戦国大名だったが、天正18(1590)年の豊臣秀吉の「小田原攻め」に参陣せず、豊臣秀吉の奥州仕置では、改易は免れたものの、三戸城主南部信直の支配下に組み込まれた。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際に、広郷の子広長は、南部利直に従い最上救援に出陣した。しかしその留守中に、中央集権を目指す南部利直の謀略により、一族の鱒沢、上野、平清水氏らが叛乱を起こし、妻子は殺され、広長は遠野郷を追われた。広長は、伊達領住田の世田米修理を頼り世田米に居住し、伊達政宗の支援を受けて遠野郷を奪回しようと遠野郷に攻め込んだが、その都度敗退を繰り返し、阿曽沼氏は没落した。

その後、鱒沢氏らの在地勢力は、結局南部氏により排除され、寛永4年(1627)、南部利直は、三戸南部と並ぶ有力な一族である八戸南部の直義をこの地に配し、南部藩の中央集権体制を確立した。以後240年にわたる遠野南部氏1万2千石の時代が明治維新まで続く。