岩手県久慈市大川目町

2012/03/31取材

別名:八日館、新町館

久慈城は、慈光寺の東側にある南東に伸びた比高約40mの男山に築かれている。丘陵の南端西側の最高所が本郭で、東に向かって二の郭、三の郭が配されている。南の中腹には馬場跡が、背後には堀切が残っている。

築城年代は定かではないが、文明年間(1469~87)頃に、南部氏庶流で南部光行の子朝清を祖とする久慈氏十二代久慈信実によって築かれたと伝えられる。久慈氏は以降十九代、三百数十年にわたり久慈地方を治めたと伝えられているが、信実以前については諸説があり不明な点が多い。

天正19年(1591)、十八代久慈直治は、九戸城主九戸政美と三戸城主南部信直との争乱の際、女婿の十九代政則とともに九戸政実に与して九戸城に籠城し、搦手の副将を努め奮戦した。しかし、浅野長政らの中央勢の謀略により政実とともに捕らえられ、栗原郡三迫の豊臣秀次の陣で斬首に処せられたと云う。

久慈氏の嫡系が滅亡し城主を失った久慈城は、翌天正20年(1592)、豊臣秀吉の諸城破却令により破却された。

一説には、久慈直治の父信義の弟十郎は、異母兄と折り合いが悪く、出奔して津軽郡代の石川高信を頼り、大浦氏の養子となり平蔵と名乗り、後に為信と名乗ったという。この人物が初代津軽藩主の津軽為信と云う。