岩手県譜代村第25地割

2012/04/01取材

鵜鳥神社は、大同2年(807)に勧請されたと伝えられるが詳細は定かではない、しかし、古くから「うねどり様」と呼ばれ、大漁満作、海上安全、縁結び、安産の神様として、沿岸部はもちろん、内陸部からも参詣客が訪れる。

藩政時代までは卯子酉神社と称していたが、明治維新の神仏分離令以後は、神社とゆかりのある鵜鳥の名をとり鵜鳥神社と改称され今日に至る。

この地には、平泉から落ち延びて北を目指した義経主従が滞在したという伝説が伝えられる。

建久2年(1190)、平泉を落ち延びて各所を転々とした義経主従はこの地にたどり着いた。義経は里人に朝夕紫雲のかかるこの地の山について尋ねたところ、鵜が子育てをするので鵜鳥山と呼んでいるという。義経は何とは無く気にかかり、弁慶と藤九郎盛長を供にして鵜鳥山に登った。

この山で子育てをしていた鵜鳥は、毛は金色に光り身のたけは五尺以上もある世にも珍しい美しい鳥だった。義経はこの鳥は神鳥で、この山には神霊がいると感じ、この山に七日七夜寵り、武運長久と蝦夷地への道中無事を祈願した。

ある夜、義経の枕もとに、玉依尊姫、鵜茅葺不合尊、海神尊の三神が現われ「われら三尊は数百年前より当山に住み鵜をつかいとしている」言う。

義経は蝦夷地への渡海が安全であるかどうかを御縒りを受け占ったが、その結果は芳しくはなかった。そこでさらに三日三晩断食行をして神に祈ったところ、三尊と鵜鳥が現われ「海上安全に渡海すべし」と告げた。

義経主従がこの地を発つとき、すでに老齢だった藤九郎盛長に、この地に残り堂を建立し、以後鵜鳥三座大明神と称し奉り祭礼するように命じ旅立った。盛長は義経の指示に従いこの地に残り堂宇を建立、三尊と鵜鳥を祀り鵜鳥三座大明神と称した。盛長は数年後に死去し、この地に清水明神として祀られたと伝えられる。