岩手県一戸町一戸字大越田

2016/09/25取材

浪打峠は、一戸から福岡へ抜ける奥州街道の峠で「末の松山」とも呼ばれ、宮城県多賀城市宝国寺松山とともに、歌枕の「末の松山」の比定地ともいわれている。峠の一戸側に一里塚があり、峠を中心とした旧奥州街道は、国の指定史跡になっている、現在峠の下を「末の松山トンネル」があり、国道4号線が抜けている。

 

・交叉層

峠両側の崖は、「浪打峠の交叉層」と呼ばれている。交叉層とは普通「偽層」(クロスラミナ)と呼ばれ、地層が斜めに交差する小規模な地層を差し、流動している水中、または空気中で、砂や細礫などが堆積する時に生ずるものといわれている。

この地の交叉層は、海底火山の噴出が盛んだった時代に、海水の中で堆積した「末の松山層」の上位の地層で、今から1500万年前に堆積したもの。砂や軽石の粒や、火山岩の粒が主で、それにホタテ貝などの破砕片を多く含み、美しい縞模様をつくりながらつもり、明瞭な交叉の様子を見せている。

この交叉層は規模も大きく、外見も美しいことから、国の天然記念物に指定されている。

 

・浪打峠一里塚

江戸時代初期、参勤交代が行われるようになり、幹線道路には約4㎞ごとに一里塚が造られた。

幕府の道中奉行が管轄する奥州街道は、江戸から白河までだったが、街道はさらに仙台、盛岡を経て、津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道と呼ばれていた。

浪打一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に15番目の一里塚である。塚は両側ともに残っており、西塚は直径が13m、高さは2m、東塚は直径が12m、高さは2.8mある。