岩手県二戸市浄法寺町
2012/11/05取材
以降、天台寺は国内最北の仏教文化の中心地として発展したものと考えらる。この天台寺の名称が初めて資料にあらわれるのは南北朝時代の正平18年(1363)の銅鰐口で、元中9年(1392)と伝えられる銅鐘銘には「桂泉」の名も見られる。これらの元号はいずれも南朝方の元号で、この地を領していた南部氏が南朝方の有力な勢力であったことと無関係ではない。
江戸期になり、萬治元年(1658)、盛岡藩主南部重直が天台寺を再興、続いて元禄3年(1690)、南部重信が大修理を行った。現在の本堂はこのとき建築されたものである。このとき敷地内には27社もの末社も整備され、寺院として隆盛を誇った。盛岡藩からは、百石を超える寺領が与えられた。
明治になると「神仏分離令」が布告され、廃仏毀釈が起き、天台寺は国内最大級の被害を受けた。明治3年(1870)、当時の青森県官吏が実地調査に入り、天台寺領を周囲の1ヘクタールのみとし、山内20ヘクタールに及ぶ寺領をすべて官有林とし、末社27社もことごとく廃止され、仏像も数多く焼き払われた。本尊は当時の檀家の人々によって山林に隠されたため破壊は逃れたが、他の仏像は土中に埋められたり、野ざらしの状態で保管されていたため、保存状態は悪いものが多い。本堂、薬師堂、毘沙門堂、十一面観音堂以外の社殿はほぼ焼き払われ、梵鐘は破壊され、宝物であった大般若経写本も焼かれたと云う。
現在、寺に伝わる59体の仏像の内13体は平安仏とみられている。中でも開山者である行基が彫ったとされる聖観音立像は、前面の独特なノミ跡と背面の平滑な仕上げのコントラストが美しく、国指定重要文化財となっている。また中世以降の注目すべき多くの工芸品が収められており、古くから篤い信仰を集めていたことを今に伝えている。
地元では天台寺を「御山」と呼び、今も信仰を集めている。昭和62年(1987)には瀬戸内寂聴を住職に迎え全国的な話題となった。住職を退いた今も、春と秋の例大祭には青空説法を行い、多くの参拝客が日本各地から訪れる。