岩手県二戸市福岡字城の内

震災前取材

別名:福岡城

九戸城は、西に馬淵川、北に白鳥川、東に猫淵川に囲まれた断崖に面した台地に築かれた平山城。九戸城は、本丸、二の丸、三の丸、松の丸、石沢館、若狭館などから成り、三の丸を奥州街道が縦断する要地にあった。

堀沿いに土塁と石垣が巡り、土塁の高く広い部分は隅櫓跡。東の追手門は、門と木橋があったところで、南にも二ノ丸と地続きの虎口がある。二ノ丸は、本丸の東と南を囲む形で築かれ、周囲に土塁、南に大手門、北には搦手門があった。本丸の西側下は三ノ丸で今は市街地となっている。松ノ丸は、人工の堀で囲まれ、土塁の一部が残り、南東には武家屋敷の在府小路に面して大手門があった。

明応年間(1492~1500)に九戸政実の4代前の光正によって築城されたとされる。九戸氏の勢力は光正の代に顕著となり、久慈氏のほか姉帯、金田一、浄法寺氏と婚姻関係を結び、さらに南の福土氏、斯波氏とも婚姻関係を結び勢力を拡大する。

天正8年(1580)、三戸城主南部二十四代晴政が死去すると、その嫡男晴継も相次いで死去した。南部は跡目を巡り、信直支持派と九戸一派とが対立。混迷の中、信直が南部二十六代目を継いだ。

天正18年(1590)、秀吉は小田原城攻略後、奥州仕置を開始。仕置軍が去ると、葛西、大崎、和賀、稗貫氏の遺臣らが蜂起し不穏な状況となった。この機に乗じ九戸政実は翌年3月に挙兵した。信直は苦戦を強いられ、豊臣秀吉に、天下の惣無事令に違背するものとして訴え、9月には6万を超える奥州再仕置軍が九戸城を囲んだ。

九戸の籠城軍は5千人と少なかったが善戦し、苦戦と疲弊の上方軍は冬の訪れも近いこともあり、浅野長政、蒲生氏郷らは謀略を用いて開城させ、九戸勢を撫で斬りにした。九戸政実らは、宮城県三迫で処刑された。

乱後、九戸城は蒲生氏郷により改修され、南部信直が三戸城からこの城に居城を移し、九戸を福岡と改称して、城と城下町を整備した。だが、福岡城が南部領内の北に偏りすぎて不便なため、慶長2年(1597)から不来方(盛岡)築城が開始され、寛永13年(1636)に廃城となった。