岩手県奥州市水沢区佐倉河字渋田

震災前取材


 

胆沢(いさわ)城は、坂上田村麻呂が延暦21年(802)に岩手県奥州市の胆沢に造った城柵である。戦国時代の城とは異なり、築地塀を回した街区のようなもので、幅2.4m、高さ3.9m、総延長2.7kmもの築地に囲まれ、まっすぐ南北に延びる南大路、築地で回した敷地内へと入る外郭南門、そして郭内には政治を行う政庁を中心に、官衙や厨屋などが配置されていた。

朝廷は、陸奥国を支配しようと、度々蝦夷を征伐しようとした。陸奥国は、馬や鉄といった軍需品のほか、金などの貴重な資源を有する魅力的な地域だった。蝦夷征伐は、大和朝廷の時代から度々行われてきたが、奈良時代になると激しさを増した。延暦8年(789)、巣伏(すぶせ)村(現水沢市辺り)で、征東将軍紀古佐美(きのこさみ)率いる朝廷軍とアテルイ率いる蝦夷軍による「巣伏村の戦い」が起こった。この戦いでは朝廷軍が大敗し、これは陸奥国支配のシナリオをも揺るがしかねない重大な戦いだった。

朝廷は、坂上田村麻呂を陸奥に送り、東国10ヶ国、駿河、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野から浪人4000人が集められ、胆沢城が造営された。征夷大将軍の田村麻呂はこれにより造胆沢城使を兼任した。度重なる戦いで疲弊した蝦夷は、その行く末を憂いてアテルイは降伏。陸奥国は、朝廷の統治下に置かれることとなった。

大同3年(808)頃、国府多賀城から鎮守府が分離し胆沢城へ移され、鎮守府胆沢城が成立したと思われる。胆沢城は、陸奥北部および北方支配のための前哨基地として、また蝦夷の動向を監視する軍事拠点としての役割を担っていた。これにより、陸奥国では律令制度による支配が、本格的にはじまった。胆沢城には、役人のほか城内の警護を受け持つ兵士など、およそ1200人もの人々が働いた。

胆沢城はその後次第に形骸化して言ったが、後三年の役あたりまで鎮守府として機能したと思われる。今は跡地としてのみ残り、大正11年(1922)に国の指定史跡となった。