岩手県奥州市水沢区西田

震災前取材


切支丹の後藤寿庵は慶長17年(1612)に田中荘助の推挙で伊達政宗に仕え、見分村(現在の岩手県奥州市水沢区福原)に1200石を給された。

寿庵はこの地を福音の地として福原と名づけ、中央に東西五町三十間の小路を設け、西側に従族の屋敷を割りあて、寿庵の館は小路の西側に置き、外堀や堡塁などを築き、またこの小路に天主堂・マリア堂などを建てた。家臣らのほとんどが信徒となり、全国からガルバリヨ神父など宣教師や信徒がこの地を訪れ、ミサもよく行われたという。

元和元年(1615)に胆沢川の上流金入道(若柳)を用水の取水口とし、外国の知識を大いに活用し、堰の開さくを始め、幾度も暴風や洪水にあいながらも初心を貫き、砂漠のような胆沢の原野を穀倉と呼ばれる豊かな土地にする基礎を築いた。人々はこれを寿庵堰と呼んでいる。

幕府のキリシタン弾圧が迫り、伊達藩にもそれが及び始め、政宗の内意を受けた水沢城主石母田大膳は寿庵に布教をやめることを申し渡したがこれを拒否し、元和9年 (1623)福原における最後の耶蘇降誕祭を終えて従族十余名を帯同し、南部に逃れたと伝えられている。

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