岩手県一関市千厩町千厩字前田…松澤神社

震災前取材

 

この地は奥州平泉時代から産金地帯であった。平泉滅亡後はこの地は葛西氏の支配するところとなったが、その葛西氏も天正18年(1590)の奥州仕置きによって滅亡した。翌年に起きた葛西・大崎一揆後は、この地は伊達政宗の領地となったが、全国の金山は秀吉が直接支配することとなった。

秀吉は、金堀りの許可証(御本版)を発行し、文禄3年(1594)、年一回の産金の税を三回とするため、大橋、西村、鯰江をこの地に差し向けた。これを不服とした東山周辺の金掘り子三千人は、強訴のため白山堂に武器を持ち寄り集結し一揆を起こした。

金山肝入の白石十郎左衛門、及川十郎兵衛は、要害を築き三人の上使をかくまい、岩出山城の伊達政宗に救援を要請した。岩出山からは援軍として代官の黒木肥前が駆けつけ、首謀者は捕らえられて即刻処刑され、頭取三十八人は見せしめのためはりつけ処刑され、一揆は鎮圧された。

その後、葛西浪人の新城又三郎が、この一揆の黒幕は伊達政宗であると浅野長政に直訴した。このため、白石、及川両名は伏見まで証人として呼び出され、命がけで弁明することになった。

この時期は、秀吉が朝鮮半島に出兵している時期で、また翌年には秀次事件が起きる。このような中で、この事件は歴史の流れの中に埋没していったようだ。