岩手県平泉町平泉字北沢

震災前取材

 

平泉の南西約6kmの丘陵尾根の、長さ約150m、最大標高差およそ35mの岸壁の岩屋に、懸造の達谷窟毘沙門堂がある。延暦20年(801年)、征夷大将軍坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた蝦夷を討伐した際に建てたものと伝えられる。

この毘沙門堂の縁起によると、

かつてこの地には、悪路王、赤頭、高丸等の蝦夷が砦を構え、女子供を掠めるなど悪事の限りをつくしていた。国府もこれを制することができず、このため桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷代将軍に任じ蝦夷征伐の勅を下した。

悪路王は、三千余の賊徒を率いて駿河国清美関まで進んでいたが、田村麻呂が京を発したのを聞き、この地に戻り守りを堅くした。延暦20年(801)、朝廷軍と蝦夷は、激しく戦い、蝦夷は窟に篭り毒矢を浴びせるなどしたが、結局蝦夷は平定され、悪路王、赤頭、高丸らは捕らえられ、首を刎ねられた。

田村麻呂は、この戦勝は毘沙門天の加護と感じ、京の清水舞台を模して堂宇を創建し、108体の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とし、窟毘沙門堂と名付けた。翌年には別当寺として西光寺が開かれ、東西30余里、南北20余里の広大な寺領が定められた。

その後、前九年、後三年の役には、源頼義、義家が戦勝を祈願し寺領を寄進し、また奥州藤原氏初代藤原清衡、二代基衡が七堂伽藍を建立したと伝えられている。文治5年(1192)源頼朝が、奥州合戦の帰路、この毘沙門堂に参詣し、その後も歴代領主の庇護を受けた。しかし、天正年間(1573~93)の兵火により、岩窟に守られた毘沙門堂を除き、塔堂楼門は悉く損耗した。

戦国期が終わった慶長20年(1615)、伊達政宗により毘沙門堂が再建され、以来伊達家の祈願寺として庇護された。現在の毘沙門堂は、昭和36年(1961)に再建されたもので、創建以来五代目を数える。堂内内陣の奥には、伊達家寄進の厨子を安置し、慈覚大師作と伝える本尊、吉祥天などを秘仏として納めている。