岩手県平泉町平泉字柳御所

震災前取材

元暦2年(1185)、壇ノ浦の戦いで平家を破った源義経は、兄の頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになった。義経は藤原秀衡を頼り奥州平泉に落ち延び、この地に居館を与えられた。現在この地は北上川に浸食され狭くなっているが、かつてはこの一帯は奥州藤原氏初代の清衡の時代から、要害の地とされていた。判官館とも呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに由来する。

藤原秀衡は、関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187)病没した。義経は文治4年(1188)には出羽に出兵し鎌倉方と合戦をしている。頼朝は秀衡の後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて圧力をかけた。泰衡はこの圧力に屈して義経を慕っていた弟の頼衡を殺害。そして5百の兵をもって10数騎の義経主従を衣川館に襲った。泰衡の兵に囲まれた義経は、持仏堂に篭り、妻子とともに自害して果てた。享年31であったと云う。

泰衡は、その後頼衡と同じ義経派であった別の弟忠衡も殺し、頼朝に義経の首を差し出した。しかし統一武家政権を目指す頼朝は、奥州の一大勢力である平泉をそのままにしておくはずもなかった。文治5年(1189)奥州追討に20万にも及ぶ兵を出し、平泉軍は阿津賀志山で敗北し、逃亡した泰衡は家人に裏切られ殺害され、藤原氏は滅亡した。

丘の頂上には、天和3年(1683)、仙台藩第四代藩主の伊達綱村が義経を偲んで建てた義経堂があり、中には義経の木造が安置されている。