震災前取材

岩手県住田町世田米字火石

 

別名:下館、新城

古くは気仙二十七城の一つで、遠野からの気仙進入を防ぐ重要な位置にあった。南北200m、東西100m、高さ50mの小山全てが城域で、八幡神社が祀られている山頂が本郭跡である。二の郭は二段の土段がまわり、中沢川と気仙川を外堀として利用した堅城である。

戦国時代末期、世田米城主は遠野阿曽沼氏の一族と思われる阿曽沼甲斐守信康で葛西家臣となっている。当時阿曽沼氏は南部氏や葛西氏の大勢力に囲まれ、葛西氏とは従属関係にあったのかもしれない。天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏の領地が没収されると、この地は伊達領になった。このとき世田米城主は伊達に臣従したものと思われる。

このとき、遠野阿曽沼氏も領地を没収され、南部氏の被官とされた。阿曽沼広長は正妻を伊達領になった世田米阿曽沼氏から迎えていたこともあり、南部利直は謀略により遠野の横田城(鍋倉城)を奪い、広長は信康を頼り世田米に逃れた。

広長は、伊達政宗の後援を受けて、慶長6年(1601)12月、世田米阿曽沼氏らとともに気仙勢を借り受けて三度遠野奪還を試みたが失敗し、阿 曽沼氏は名実ともに遠野領主としての地位を失った。
その後、この地域一体は伊達藩の直轄地となり、城も廃城になったと思われる。