福島県西会津町下谷字宮ノ後

2020/07/19取材

この地の観音堂は、葦名氏六代盛員の後室の藤原氏が、中先代の乱で命を落とした盛員と嫡男高盛の菩提を弔うため建立したと伝えられる。

建武二年(1335)、鎌倉幕府の執権北条高塒の遺児の時行が、鎌倉幕府再興のために、反乱を起こした(中先代の乱)。この乱では、葦名盛員は長男の高盛とともに、足利直義と合流した足利尊氏の軍勢に属して奮戦したが(異説あり)、同年、辻堂・片瀬原の合戦で父子ともに戦死した。

円満寺の創建は、延元元年(1336)、葦名盛員の後室である藤原氏が、盛員と高盛の菩提を弔う為、観音堂を建立したのが始まりだと伝えられる。

円満寺の本堂などの堂宇は廃れたが、観音堂は篤い信仰により永く守られ、天正七年(1579)に修復、その後の慶長十六年(1611)の会津地震では倒壊したが、翌年に再建された。室町末期の貴重な仏堂建築として、昭和三十八年(1963)に国重要文化財に指定されている。