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福島県福島市佐原
天正13年(1585)、二本松の畠山義継は、伊達輝宗を拉致し人質にとり二本松に向かった。伊達政宗はすぐさまこれを追い追いついたが、畠山勢は皆刀を抜き、輝宗と 義継を取り囲み、伊達勢は輝宗が人質に取られているため手を出すこともできず阿武隈川の平石の渡しまで来た。伊達勢はこれ以上追いかけることもかなわず、鬨の声をあげどっとおしかけ、義継をはじめ畠山勢50余人をもらさず討ち取った。
この乱戦の中で伊達輝宗は命を落とし、この地の寿徳寺(慈徳寺)に運ばれ荼毘にふされた。この輝宗の二十七忌の日、輝宗の重臣の遠藤基信はこの地で割腹し殉死した。享年54歳だった。伊達家は、この基信を偲び、この地に紅梅を植え供養したと云う。墓は、山形県高畠町の輝宗の墓のそばにある。
遠藤基信は、伊達山伏藤原役行者流の修験者で、信夫郡八丁目城下西光寺の住職の子であると伝えられる。若いころは諸国を巡り、その後米沢を訪れ伊達家に仕えた。初めは、伊達晴宗の重臣であった中野宗時の家臣だったが、宗時が伊達輝宗に謀反を起こしたときにはこれに従わず、輝宗に取り立てられた。
基信は外交手腕に優れ、織田信長、徳川家康、北条氏照、柴田勝家らと頻繁に書状を取り交わして交渉を行ない、信長と積極的に交誼するよう輝宗に進言した。輝宗はそれを入れ、信長へ鷹や馬などの奥羽の特産を頻繁に贈っている。
輝宗は基信の才を愛し重く用い、基信は、輝宗政権時の家臣団を代表する立場であった。後に伊達政宗の軍師となったことで有名な片倉小十郎景綱を若年のうちに見い出し小姓に推挙したのも基信である。