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福島県福島市松川町

 

八丁目城は、現在の福島市の南端、松川町中心部の西北の山に築かれた山城である。安達郡と信夫郡の境目の城で、郡境の境川から八町の距離にあることから八丁目城と呼ばれるようになったと云う。

本郭は標高251mの丘陵の最高所に位置し、東西40m、南北50mで、南方や東方へ尾根続きに郭が設けられている。二ノ郭は南方に位置し、東西約35m×南北約40mの規模であり、周囲には数段の郭が配されている。城域全体は、およそ東西400m、南北450mである。

八丁目城は、戦国期の16世紀、桑折西山城を本拠とする伊達稙宗が支城として築いたと伝えられる。天文の乱の時期、城主は堀越能登守興行だった。天文の乱では、堀越能登守は稙宗方に属し、晴宗方の二本松城を攻撃し、畠山氏の家中を稙宗方とした。稙宗は天文12年(1543)この城に入り、翌天文13年(1544)に晴宗方の攻撃を受けた。しかし、天文の乱は天文17年(1548)、将軍足利義輝の仲介により終結した。

天文の乱後、勝利した晴宗は、清野備前守を城主にすえた。しかしその子の遠江守は、伊達輝宗に対し反旗を翻し、伊達氏の攻撃を受けて自害した。

その後、堀越氏が八丁目城主として返り咲いたが、元亀元年(1570)、時の城主堀越宗範は二本松の畠山義国に寝返り、一時この城は二本松領となった。しかし、天正2年(1574)、大森城の伊達実元が八丁目城を奪還し再び伊達領となった。

以後この城は伊達実元が支配し、二本松氏に対する押さえの城として伊達氏の重要拠点となった。天正12年(1584)頃、実元は嫡子の成実に家督を譲りこの城に隠居し、のちにこの城で没した。天正14年(1586)、伊達政宗により二本松の畠山氏が滅ぼされると、片倉景綱が大森城に入り、成実は二本松城に入り、八丁目城はそのまま成実の所領として宛われた。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置により、伊達政宗は会津、岩瀬、安積を没収された。この奥州仕置に際して、浅野長政が大崎氏領へ向かう途中に八丁目城に滞留し太閤検地を実行した。その後廃城になったと思われる。