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福島県福島市宮代

 

この地には、岡山備中足守藩の陣屋があった。

備中足守藩は、豊臣秀吉の正室寧々(杉原寧子、高台院)の実兄の木下家定を藩祖とする2万5千石の外様 大名である。備中足守周辺の40ヶ村を領地とし支配していたが、寛政12年(1800)、幕府より信夫、伊達郡内の25ヶ村2万石の村替を命じられ、その分領支配のための陣屋をこの地に置いた。

この時の村替は、備中40ヶ村の内37ヶ村を召し上げられ、足守藩は本拠の備中では3ヶ村のみでかろうじて存続した。足守藩にとっては大打撃で、生産性の高い瀬戸内地方に比べて、当時の福島市周辺は単位面積あたりの米の収量も少なく、見かけ上は同じ石高でも、実質では七千石の減収になったと云う。

その後、足守藩は31年後の天保2年(1831)、半分の1万石を元の領地へ戻してもらうことに成功したが、この地は幕末まで足守藩が統治した。

幕末時期には、現在の福島市は、福島藩3万石の他に、二本松藩、関宿藩、新発田藩、刈谷藩、足守藩の飛地領や天領により複雑に分割されていた。戊辰戦争時には、二本松藩と関宿藩は佐幕派としてその去就は定まっていたが、他の藩の去就は定まらず、奥羽越列藩同盟の動きの中で混乱した。

そのような福島諸藩の牽制もあってか、この足守藩陣屋には、仙台藩の別働隊で細谷十太夫が率いる衝撃隊(烏組)が入った。衝撃隊は、十太夫が博徒や農民などで編成した一隊で、黒装束に身を包み、夜襲を得意としたゲリラ活動を行い西軍を悩ませた。

その後、明治3年(1870)、分領は県に渡され、陣屋の建物も解体された。現在は市指定天然記念物の大カヤと、備中から分霊した屋敷守の最上稲荷がある。