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福島県下郷町大内字山本

震災前取材

  • 大内宿
大内宿は、 会津西街道(下野街道)のかつての宿場で、南会津下郷の山中にある。全長約450mにわたり、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並び、江戸時代の半農半宿の宿場の雰囲気をよく残している。

大内宿は、寛永20年(1643)頃に開かれ、北北東から南南西に貫く街道に沿って、整然とした屋敷割の街並みが形作られた。この街道は、会津若松を出ると、福永宿、関山宿を経て山地に入り、氷玉峠および大内峠を越えて大内宿に入った。大内宿からは中山峠を越えて倉谷宿に入り、日光街道の今市宿へと至る。会津若松から江戸までは61里、5泊6日ほどの旅程だったが、若松から5里の距離にある大内宿には、本陣や脇本陣が設置され、会津藩の参勤交代や廻米の集散地として重要な駅となった。

しかし、延宝8年(1680)、江戸幕府は参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになり、正保元年(1644)から計21回あった大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶え、白河藩経由の白河街道に移った。

それでもこの街道は、物資の流通が盛んだったが、天和3年(1683)の日光地震によって、戸板山が一部崩壊し、五十里宿および周辺の街道が堰止湖に水没し機能不全となった。会津西街道の代替路として会津中街道が新規開通し物流は中街道に移った。

40年後の享保8年(1723)、大雨により堰止湖が決壊し、会津西街道は復旧したが、中街道や新たな脇街道に物流が奪われ、かつての繁栄はなく、純粋な宿場町ではなく「半農半宿」の宿場となった。その後、慶応4年(1868年)の会津戦争では、この地も戦場となったが宿場は戦禍を免れた。

明治15年(1882)、福島県令の三島通庸による会津三方道路の工事により、会津西街道は別ルートに付け替えとなり、新街道から外れた大内宿からは次第に賑わいは失われていった。さらに、明治32年(1899)、現在の磐越西線が開通すると、会津と関東との間の物流は南会津を通らなくなり、大内宿の宿駅としての地位は失われた。

その後この地は近代化から取り残され、山間の寒村となっていたが、昭和40年代から、この地に残る旧宿場の街並みが評価され、街並みの保存活動が始められた。昭和55年(1980)、「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定され、昭和56年(1981)には、長野県の妻籠宿および奈良井宿に続き、旧宿場としては全国で3番目の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。現在は、この古い町並みを訪れる観光客数は、年間100万人を超える。