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福島県棚倉町板橋字日照田

  • 縄張図(現地解説板)

中丸館は杜川の右岸、大清水池に隣接した比高約10mの微高地に築かれた平城で、堀と土塁で囲まれた方形館である。全体の規模は東西約80m、南北約200mほどで、中央部を幅7mほどの堀で区画された北郭、南郭の2郭からなっている。両郭は土橋で結ばれ、「一番平」と呼ばれる北郭が東西約50m、南北約50m、「二番平」と呼ばれる南郭は東西約50m、南北約60mほどである。周囲を幅10mほどの堀がまわり、堀の外側に高さ5mほどの土塁がまわる。北西隅、南東隅には虎口が設けられ、北西隅と南西隅には物見の櫓台があったと考えられている。

築城時期は不明であるが、田村氏の一族の仲丸右京大夫が築いたとされ、また、結城氏一族の上遠野美濃守盛秀が居したとも伝えられる。永正年間(1504~20)、白河結城氏の勢力が内訌により衰退すると、三春城主田村隆顕は白河領に侵入、勢力を拡大しており、中丸館はこの頃 田村氏により築かれたと推測される。

天文11年(1532)に伊達氏で勃発した「天文の乱」後、佐竹義篤が白河領の南郷へ侵入して白河結城氏を圧迫したが、白河晴綱は会津黒川城主葦名盛氏と結び佐竹勢に抗し、永禄3年(1560)には佐竹勢を撤退させた。この時、中丸館主だった上遠野盛秀は、晴綱の命により佐竹勢に対する抑えとして赤館に移され、中丸館は破却されたと思われる。