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福島県湯川村三川字館ノ内

北田城は、鎌倉時代初期に佐原十郎義連の子、次男の佐原広盛が建久4年(1193)に築き居館とし、その後北田氏を称し、以後200年以上にわたりこの地を支配した。佐原氏は会津各地に一族を配し、兄の経連は猪苗代氏の祖、弟光盛は葦名氏の祖となっている。

城は東に湯川、西に阿賀川、北に日橋川と三方を川で囲まれている段丘上に、主郭が東西120m南北110m、外郭が東西220m南北210m、北郭は東西150m、南北60mと広大な広さを持つ平城で、北会津を押さえる要害の地であった。鎌倉中期から室町初期までの間、県内最大の平城だったと伝える。城の北側には日橋川にかかる橋を隠す橋隠しの土手があったというが、昭和30年(1955)代に取り崩されたと云う。

同じ一族の新宮氏とは時には反目し、時には結んで本家の葦名氏との抗争を繰り広げたが、応永9年(1409)北田氏六代目の上総介政泰は、新宮城主の新宮盛俊と結び黒川城の葦名氏に反旗を翻した。しかし応永16年(1416)、北田城は葦名盛政によって攻め落とされ、政泰父子らは討死し北田氏は滅亡した。