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福島県白河市旗宿字滝

震災前取材

 

 

  • 現地案内板

 

 

白河関は勿来関(福島県いわき市)、念珠関(山形県熱海町)とともに奥羽三関と称される古代関で、律令制時代に制定された古代官道である東山道に設置されていた。

白河の関は、古くより陸奥への関門として歴史にその名を残しているだけではなく、歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所で、西行、一遍、宗祇など和歌や仏教で有名な文化人がこの地を訪れている。

「都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」…能因法師

白河関の伝承を聞いた松尾芭蕉らもこの地に一泊し、翌朝、宿の主人に教えられた明神祠に参拝しているが、其処こそが白河関跡地だった。

またこの地には、前九年、後三年の役で知られる源頼義、義家父子や、頼朝の挙兵に駆けつける義経らもここを通ったと考えられ、今も多くの伝承が伝えられている。

しかしその後、街道は白坂越えと呼ばれるルートをとることになり、こちらは忘れ去られ、僅かに民間の伝承の中に白河関が伝えられるようになった。

関が置かれた年代については不明であるが、承和2年(835)、延暦18年(799)の太政官符には「白河セン」の名が認められることや歴史的な背景からみて、大化の改新以後7、8世紀頃には存在していたものと考えられる。

この関が初めて設けられた当時、この地は大和朝廷の勢力範囲の北限だったとおもわれ、蝦夷にたいする前進基地という目的で設置されたと考えられる。

比較的通行の容易な平野部に設けられていることと、関跡に残る空堀、木柵跡、などの遺構は、この関が人々の往来や敵の侵入を制限するという、本来の関としての役割よりも、軍事集団の拠点という性格だったのではないかと思われる。

その後、大和朝廷はさらに北進し、宮城県の多賀城がその前進基地となったあとも、白河関は後方基地の役割を果たしていたようだ。廃絶の時期も明確ではないが、軍事的な役割を終えた時期、奥州藤原氏が滅亡してしばらくの後の12、13世紀頃と考えられている。

その後、関の位置も定かではなくなり、江戸期の白河藩主松平定信がもろもろの調査の結果をもとに現在史跡として定められている旗宿の地と推定し、碑を建立した。

昭和34年(1959年)から38年にかけて、定信が定めた地が古関跡かを確認するため発掘調査が行われ、柵列、柱列、門(推定)の跡など、古代の関の構造を示すものが確認されて、昭和41年(1966年)に国の史跡に指定された。