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福島県白河市藤沢山

震災前取材

  • 城山遠望
 

別名:搦目城

白川城は、白河市街の東、阿武隈川の川筋を南から一望できる丘陵にある。御本城山と呼ばれる山頂の平坦部が主郭跡で、空堀と土塁で守られており、周辺に多くの郭が配されている。主郭はかなり広く、北側に土塁が見られ、また坂を下った場所には虎口も残っており、東側には鐘撞堂とされる平場がある。北側藤沢山には二の郭、また、南西部の丘陵にも遺構が存在し、郭と郭の間には土塁や空堀などの遺構が確認されている。

下総の豪族だった結城朝光は、源頼朝の挙兵に従い、平家追討後は奥州藤原氏討伐に従軍、その功により奥州白河庄の地頭職を与えられた。朝光の孫の祐広は、正応2年(1289)頃に白河へ下向し、この白川城を築いて居城としたという(異説あり)。

後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵すると、祐広の嫡子の宗広は、新田義貞の鎌倉攻めに参加し、建武の新政においては宗広の子の結城親光は三木一草と称される有力武士の1人となった。親光の兄の結城親朝は奥州府の式評定衆として義良親王を奉じて陸奥守北畠顕家と北畠親房父子を補佐し、葛西氏、伊達氏らとともに、奥州の南朝方の中心的存在となった。宗広、親光父子は奥州軍を率い、京都周辺まで遠征し、北朝方の足利尊氏軍と戦った。

興国元年(1340)、五代親朝は隠居後、新たに小峰城を築き小峰氏を称した。以後、白河 結城氏は同族の小峰氏と協調しながら勢力を保ち、七代結城直朝の時代には最盛期を迎えた。しかしその後は、小峰氏との内紛の中で凋落の一途をたどり、戦国時代には小峰城主の小峰義親に追われて会津へ落ちた。

小峰氏は佐竹氏、葦名氏に属し命脈を保ったが、葦名氏が伊達政宗により滅ぼされると伊達に従い、その後の豊臣秀吉の奥州仕置きにより所領は没収され、この時期に白川城も廃城となったと思われる。

この城の搦め手側の断崖には「感忠銘碑」が刻まれているが、これは江戸時代に、白河結城宗広、親光父子の業績を伝えるために、白河城主松平定信が「感忠銘」の三文字を撰し、広瀬典の文章を彫ったものである。