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福島県須賀川市愛宕山

  • 愛宕山城模型
 

別名:岩瀬山城、琵琶首館、古須賀川城

二階堂為氏以前の二階堂氏の本拠城である。現在の翠ヶ丘公園がほぼその城域で、愛宕山山頂が本郭にあたる。

愛宕山は標高が278.4m、比高は約40m、東西約450m、南北約800mほどである。周囲に北館・南館・五老山・妙見山・保土原館等の郭・平場を敷設した多郭式城館。築城当時は、「琵琶池」と「新池」が北の釈迦堂川とつながり、山の周囲は広い水堀に囲まれていた。

公園として整備され、遺構の多くは失われているようだが、山頂部の本郭跡は高さ2mほどの土塁が残っており、比較的良好に遺構は残存している。主郭は東西約70m、南北約50mほどで、虎口は南東隅と北西隅にあり、南東虎口が大手口と考えられる。この地は中世鎌倉街道が通っており、釈迦堂川をわたる磐瀬の渡しをひかえる河川交通の要衝だった。

鎌倉時代末期、岩瀬郡に下向した鎌倉御家人二階堂行朝(信濃入道行珍)により築かれたと伝えられる。二階堂氏は南北朝期には南朝方に与していたが、その後北朝方となり、南北朝合一以降は鎌倉府支配下の有力国人となった。応永6年(1399)、鎌倉公方足利満兼の弟満直(篠川御所)と満貞(稲村御所)が陸奥に下向すると、二階堂行続は、両公方の命により、安積、岩瀬、田村郡の有力国人に呼びかけて一揆契約を結ぶ頭人となった。

永享10年(1438)、鎌倉公方持氏と関東管領上杉憲実の対立から「永享の乱」が勃発すると、将軍足利義教は管領方に与して軍事介入し、二階堂氏同族の稲村二階堂氏は鎌倉公方方に与したが、行続は将軍の命により幕府方で出陣した。乱後、稲村二階堂氏は没落したが、行続は稲村二階堂氏一族を支配下に組み込み、この頃に新たに須賀川城を築城し移ったが、この岩瀬山城は、須賀川城の詰城として存続し一族の守谷氏が入った。

天正17年(1589)、須賀川城が伊達勢の攻撃を受けて落城した際には、守谷氏は伊達勢に付き所領を安堵された。しかし翌年の天正18年(1590)には豊臣秀吉の奥州仕置により、岩瀬郡は会津の蒲生氏郷領となり、慶長3年(1598)に会津に上杉景勝が入部すると、この城には栗田刑部が入った(異説あり)。慶長6年(1601)年、蒲生秀行が会津に入封すると、須賀川城に蒲生郷成が入いりこの城はその頃破却されたと考えられる。

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