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福島県大玉村大山字東

2011/04/06取材

 

南北朝期に、この地方には、南朝方の肥後菊池氏の一族が、南朝方の軍勢の催促のために来たが、その任を全うすることが出来ず土着したと伝えられる。この来迎寺を開基した菊池氏も、流れは肥後の菊池氏ではないかと考えられる。

この来迎寺には、酒呑童子にまつわる伝説が伝えられる。

昔、村人達が萱刈りに岳山に登った。その中の一人の若者が、水を飲みに川へ下ると、そこに赤い魚が泳いでいた。若者は皆で食べようと焼いていたが、あまりに旨そうな匂いがしたので一人で全部食べてしまった。

なにくわぬ顔で萱を刈っていたが、顔が次第に熱くなってきた。ついには熱くてたまらなくなってきた。仲間が、若者の様子がおかしいのに気が付き近づいてくると、なんと若者の頭に角が生えていた。仲間たちが驚いているうち、顔つきも恐ろしいものに変わっていった。鬼に変ってしまった若者は、山の中に逃げていった。

その後、村を通る街道に、度々、安達太良山に住む鬼が現れて村人を襲うようになった。困り果てた村人たちは庄屋の家に集い、相談したが名案が浮かぶはずもない。その時、大三という若者が、この鬼退治を名乗り出た。大三は早速鬼のところに行き、持って来た酒や食べ物を振舞い、「悪さをしないように」と言い聞かせた。鬼は、優しい大三の話を聞き、心を改め、自分と同じような形をした鬼石をそこへ置いて山へ帰っていった。

しかしこの鬼は、大人しく一人で山で暮らすのにも飽き、都へ出てまた悪さをするようになった。家来を従え、大江山に住みつき、酒呑童子と呼ばれるようになった。いつしか酒呑童子らは、盗み、人殺しなど悪事のかぎりをつくすようになり、ついに渡辺綱(つな)に片腕を切り落とされた。

大江山に逃げ帰った童子は、婆に変装して腕を取り返したが、源頼光()らいこう)によって大江山は攻撃され、かなわぬとみた酒呑童子は、故郷の安達太良山を目指して逃げた。しかし本宮を過ぎたこの地の近くで追いつかれ、首をはねられてしまった。

その首は故郷の鬼石のところまで飛んだと云う。酒呑童子の死骸は埋められ松が植えられ、その地は「鬼松」と呼ばれるようになった。また、このとき源頼光の乗っていた馬も力尽き倒れてしまったので、その地に馬の墓も建てられ「馬尽(まつくし)」呼ばれるようになった。

その後、それらの墓はこの寺に移され、寺名を鬼松山来迎寺と名付けられ、村の名も「大江」となったと云う。