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福島県大玉村玉井字亀山

2011/04/05取材

 

この地は、会津へ至る裏街道が通っていた。このため、戊辰戦争では、二本松から会津への進撃路となった。

江戸城無血開城の後、西軍は東北地方に進軍し、その強硬な姿勢に対し、奥羽諸藩は奥羽越列藩同盟を結び抵抗し東北戦争が始まった。東軍は平城、白河城などで西軍を迎え撃ったが敗れ、7月29日(新暦9月15日)には二本松城が陥落し、西軍はその矛先を会津へ向けた。

会津へ入るには何ヶ所かの街道があるが、会津藩は日光口の会津西街道、白河口の勢至堂峠、さらに二本松と若松を最短で結び、当時の主要街道であった二本松口の中山峠を厳重に固めていた。中でも西軍は中山峠に殺到すると予測し、特に厳重に防備を固めていた。

しかし西軍はその裏をかき、母成峠を通るこの裏街道に主力およそ2800を進め、中山峠には陽動部隊およそ200を派遣した。東軍は、この玉井方面には、幕府伝習二大隊、会津二小隊、二本松二小隊、仙台二小隊、およそ800が配され、母成峠に陣地を構築していた。

西軍は、慶応4年(1868)8月20日、本宮から会津に向けて進発した。これを察知した東軍は、母成峠から山入村に進出し、西軍は玉井村に進み対峙した。東軍の主力は、旧幕府軍の伝習隊200で、左翼に二本松藩兵、右翼に会津、仙台藩兵の合計400が陣を敷いた。

西軍は、左翼の二本松藩兵に攻撃を加え、その後安達太良川を越えて二手に別れ、右翼の会津、仙台藩兵も攻撃した。本隊は伝習隊に銃撃を加えた。伝習隊は大砲1門を据え西軍を迎え撃ち、先鋒隊は各所で西軍と銃撃戦や白兵戦を展開した。

午後3時頃に両軍が激突し、暮過ぎまで激戦が続いたが、東軍は兵力の少ない両翼が破られ、中央の伝習隊は奮戦するも、三方より包囲攻撃され、被害が大きく、遂に母成峠に向かって敗走した。会津藩兵31人が討ち死にし、中には退路を絶たれ自決したものも多かったと云う。

結局、この山入村での戦いでは、東軍45名が戦死し、その中には大壇の戦いで負傷し生き残った二本松少年隊士2名もおり、西軍の戦死者は4名だった。翌日西軍は母成峠に進み東軍を破り、怒涛の勢いで会津若松城下に侵攻した。