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福島県三春町荒町…高乾院

震災前取材

 

秋田氏墓所は、高乾院本堂左側の高台にある。高乾院は、秋田氏の菩提寺で、正保2年(1645)年、秋田氏の三春入封にしたがい、現在地に建てられた。

秋田氏=安東氏は、その系譜は蝦夷に連なるといわれ、天正17年(1589)まで蝦夷と蝦夷島を支配していた。その祖は神武天皇の東征に抵抗して大和国生駒で誅されたという長髄彦の兄の安日王と伝えられる。安日王は死罪を免れ、北海浜に流されて蝦夷の祖となり、その子孫がやがて北奥羽に勢力を張った安倍氏となり、その後、安東、秋田氏に至ったと云う。

安東氏は、津軽十三湊を本拠にして成長していったが、室町期の南部氏の津軽侵入により、十三湊から逃れ秋田郡を支配した。

戦国期に入り、安東愛季が現れ、比内地方を支配下におさめ、鹿角をめぐって南部氏と激しく争った。また由利地方を巡っては、庄内の武藤(大宝寺)氏とも対立した。

愛季の子の実季の時に、秋田氏を名乗り、天正18年(1590)、小田原に参陣し、秀吉から本領5万2千4百余石を安堵された。豊臣政権下では秋田地方の太閤蔵入地の代官に任命され、また朝鮮出兵のための安宅船や伏見作事用の材木を運送するなどの賦役を担った。

ところが、関ヶ原合戦後の慶長7年(1602)、関ヶ原合戦で旗幟鮮明にしなかった佐竹氏が減封され秋田に移り、秋田氏も関ヶ原の際の不手際を責められ、常陸宍戸五万五千石への転封を命じられた。実季はこのときの処置に不満があったようで、そのためか、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられた。

しかし秋田氏は、実季の子の俊季の幕府への忠節と、実季の妻が織田信長の姪で将軍秀忠の妻崇源院の従姉妹に当たることもあり、陸奥三春5万5千石に移され存続を許された。その後、三春の大名として幕末に至った。