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福島県福島市松川町字土合舘

 

土合館は、標高225.2mの丘陵上に位置し、東西約130m、南北約330m、主郭は東西約50m、南北約80m。頂上の主郭から、北東、北西、南側の3方向にそれぞれ尾根が伸びており、その尾根上に郭が設けられており、北東側と北西側にの尾根の中間の平場に土塁が位置し、虎口が設けられていた。現在は、土合館公園として整備されている。

天文11年(1542)、伊達稙宗と嫡子晴宗との争いに端を発し、天文の乱が勃発した。八丁目城主である清野備前守は稙宗方に属し、東南約1.4kmのこの地に土合館を築き自らの館とし、この土合館を東館、八丁目城を西館と称した。土合館は八丁目城の支城的役割を果たし、八丁目城と奥州街道を挟んで対を成して、街道の抑えとして機能した。館の北東部は「町畑」と呼ばれ、かつて城下集落が形成されていたところであるという。

また、清野備前守は、この館で隠居生活に入ったため「隠居館」とも呼ばれている。八丁目城には子息である清野遠江守が城主になり、一時、伊達稙宗が天文の乱によって逃れ、八丁目城に入城した。

天文の乱は、晴宗側の勝利に終わり、清野遠江守は伊達氏の攻撃を受けて自害した。その後、八丁目城には城主として堀越能登守が入城したが、後に能登守は二本松の畠山氏の誘いに乗り伊達氏を裏切ったために、八丁目城とともに一時的に二本松方の持ち城となった。

このため、伊達輝宗は、叔父の大森城主伊達実元に八丁目城の奪還を命じ、天正2年(1574)実元はこれにしたがい八丁目城を奪回し、以後は、この土合館ともども、伊達実元の持ち城となった。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置において八丁目城が廃城になると、土合館も共に廃されたものと思われる。

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