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福島県会津若松市河東町八田字大野原

 

強清水に近い、「白虎隊奮戦の地」の近くに、「夜泣き石」と呼ばれる石がある。この石には次のような伝説が伝えられている。

葦名氏の時代、無実の罪で切腹させられた侍の奥方が、子供にまでその罪が及ぶのを恐れ、二人の子供を連れて逃げ、闇夜にまぎれこの地まで来た。ここで一休みしたところ、上の男の子はすっかり疲れ果て、そのまま道端の石の上で眠ってしまった。奥方は、幼子二人を連れての道中はおぼつかなく、このままでは追っ手に追いつかれ殺されてしまう。皆が殺されるくらいなら、ここで上の子をこのまま捨て子にしていけば、もしかすると良い人に拾われるかもしれないと考え、妹の乳飲み子だけを背負い、泣く泣くその場を立ち去った。

やがて男の子が目を覚ますと母も妹もいないのに気付き、母を呼び泣きわめいた。すると道の向こうの藪の中から母の声で「こっちへおいで」と声がする。男の子はすぐにその声の方へ駆けて行こうとしたが、足が石に吸い付いてしまって動けない。男の子を呼んだのは、「呼ばり石」という子供をとって食う魔物の石だった。男の子は、どうしても足が動かずもがいていたが、再び疲れてまた眠ってしまった。

やがて朝が来ると、何人かの男達が母子を探し駆けて来た。父の冤罪が明らかになり、いなくなった母子を探して追ってきたのだった。男の子はその後城に戻り、長じてからは父の跡を継いだが、母と妹の行方はついに知れなかった。

この石は「夜泣き石」」と呼ばれ、子供の足跡のような窪みが残っている。夜泣きする子をおぶって、ここへお参りすると、夜泣きがピタリと止まると云われ、多くの母親が子供を連れてお参りしたと云う。また魔物の石の「呼ばり石」は、その後の道路の拡張で無くなったと云う。

また、次のようにも伝えられる。

那須の殺生石を砕いた玄翁和尚は、その後全国行脚の旅に出て、ある時猪苗代湖畔に辿り着いた。日もすっかり暮れ夜道を歩いていると、どこからともなく子供の泣き声が聞こえて来る。和尚は声をたよりに探すと、道端の草むらに子供がうずくまって泣いていた。何を訪ねても、泣くばかりで、置いたままにしておくわけにもいかず、和尚はしかたなくその子を背負って歩き始めた。

しかし、どうしたことか、歩いているうちに背負った子供はどんどん重くなっていく。しまいには背負っているのが精一杯になり道端の石に座り休むことにした。しばらく休み、和尚は立ちあがろうとしたが、体が持ち上がらない。後ろを見れば、背負った子供の足が石にめり込み、子供は両手で和尚をしっかりと押さえ込んでいた。

この子供は、九尾の狐の精が化けたもので、殺生石を砕いた復讐をしようとしているものと考えた和尚は、経文を唱えつつ、杖で背中の子供を打とうとすると、子供は一瞬にして草むらの中へ逃れてしまった。和尚はその後は何事も無く、無事に旅を続けたと云う。