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福島県白河市菅生舘

 

南湖神社は南湖の北側に鎮座し、第三代白河藩主、松平定信(白河楽翁)を祀った神社。定信の遺徳を敬慕する白河市民を始めとした各地の崇敬者と、当時の財界の巨頭であった渋沢栄一の尽力により、大正9年(1920)神社設立が認可され、大正11年(1922)建立された。

松平定信は、宝暦8年(1758)、御三卿の田安徳川家初代当主、田安宗武の七男として生まれた。幼少期から聡明で知られ、田安家を継いだ兄が病弱だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第十代将軍徳川家治の後継と目されていたとも云われている。しかし、田沼意次による田沼政治を「賄賂政治」と批判していたため、安永3年(1774)、陸奥国白河藩第二代藩主、松平定邦の養子とされた。

定信は、26歳で白河藩主の座についたが、この当時は、天明の大飢饉の時期だったが、定信は自らが率先して倹約に努め、また関西から食料を大量に買いこみ人々に施したため、白河藩からは飢饉による死者を一人も出さなかったといわれている。また、飢饉における窮民対策として、日本最古の公園である「南湖」を築庭し、身分制度の厳しい時代の中で、一般庶民にもこれを開放するなど、善政を敷き名君と称えられた。

天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786)に徳川家治が死去し、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787)、幼少だった第十一代将軍徳川家斉のもとで老中首座、将軍輔佐となった。幕閣から旧田沼派を一掃粛清し、祖父徳川吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。

定信引退後、定信派の老中はそのまま留任し、定信の政策を引き継ぎ、寛政の改革における定信の政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持された。

文政12年(1829)5月に死去した。享年72歳。